2008年9月9日、佐藤真海は北京・国家体育場にいた。彼女にとっては2回目のパラリンピック。走り幅跳びを始めてわずか1年で「ラッキーにも行けてしまった」前回のアテネ大会とは違い、4年間、この日のために努力を積み重ねてきた。その成果を出し切る時がいよいよ来たのだ。「これまで応援し、支え続けてきてくれた人たちのためにも、最高のパフォーマンスを見せたい」。感謝の気持ちを胸に、佐藤はフィールドに立っていた。しかし、そんな気持ちとは裏腹に、この時の彼女の身体は悲鳴をあげていた。
 アクシデントが起きたのは日本を出発する直前のことだった。練習で追いこみ過ぎ、腰を痛めてしまったのだ。診断の結果、頸椎板ヘルニアだった。現地に入ってからも、状態がよくなることはなかった。動くのはもちろん、ただ立っていても、寝ていても激痛が走る。普通であれば、走り幅跳びをするなどということはとても考えられない状態だった。

「調整ミスだったと思います。それまでの負担が一気に出たのかもしれません。現地に入ってからは、さらに痛みが増して、体を曲げることもできなければ、座っていても寝ていても辛かった。練習をしようと思っても、痛さで何もできない。だから、とにかく本番までは大人しくしていましたね。少しでもよくなるようにと……」

 そんな佐藤の願いもむなしく、腰の状態は一向によくはならなかった。さすがに前日くらいは動いておいた方がいいだろうと思ったが、ちょっと動いただけで激痛が走った。あまりの痛さに佐藤は身震いした。「明日はどうなってしまうんだろう……」。メダルや記録どころか、フィールドに立てるかどうかもわからない。佐藤の不安は募るばかりだった。

 翌日、本番を直前に控え、佐藤は痛み止めの注射を打った。しかし、全く効かない。激痛に打ちひしがれながら、ウォーミングアップを行なう佐藤の目には涙があふれていた。普段、彼女は人前では泣かない。「辛い時こそ笑顔で」がモットーの彼女は、どんなに辛いことがあっても笑顔でいようとする。その佐藤が涙を流したのだ。その時の痛みと不安がどれだけ大きかったことか。それは他人にははかり知れないほどのものであったに違いない。

 大きな不安に駆られながら、佐藤は国家体育場へと入っていった。薄暗い通路を抜けると、そこには超満員の観客が待ち受けていた。
「ウワァー!」
 スタジアム全体に鳴り響く大歓声に、佐藤の身体からアドレナリンが一気に放出された。
「もう『よし、やるぞ!』という気持ちになりましたね。それまで過ごしてきた時間と、応援してくれた人たちへの感謝の気持ちを、とにかくこの場で出すんだと。もちろん、痛みはありましたよ。1本1本、着地するたびに、起き上がれないくらい痛かった。でも、最後まで集中して6本、跳びきることができました。今思うと、よくあんな痛みで跳んだなと思いますよ」

 T44クラス(下肢切断)の女子走り幅跳びには7人がエントリーしたが、1人が棄権したため、6人で行なわれた。その結果、佐藤は6位。つまりは最下位だ。記録も自己ベストにはほど遠く、満足のできるジャンプは1本もなかった。だが、佐藤は出せるだけの力を出し切った。その時の彼女にはそれが精一杯だった。

「よくこの場に立ったなぁ」
 スタンドには感慨深げに佐藤を見守る坪松博之の姿があった。坪松は佐藤が務めるサントリービジネスエキスパート株式会社のお客様リレーション本部部長。佐藤にとっては直属の上司である。しかし、それだけではない。競技者である佐藤のアドバイザー的存在でもあるのだ。時間さえあれば、佐藤の練習に付き合っている。無論、大会にも足を運ぶ。その熱心ぶりは佐藤が「一番、私のジャンプを見てきた人」と断言するほどで、毎日コーチに見てもらえるわけではない彼女にとっては心強いアドバイザーなのだ。

「北京は、これまでで一番表情のない大会でしたよ。いつもだったら、気持ちがもっと顔に表れるのに、北京での佐藤はずっと暗い表情をしていました。というのも、痛みを我慢していることを悟られまいと、こらえていたんでしょうね。でも、私自身はそれほど悲しい気持ちではありませんでした。とにかく、この晴れ舞台に立ててよかったなと。記録も出せませんでしたが、よくやったなと思って見ていました」

 揺れたパラリンピックへの思い

 北京後、佐藤は治療とリハビリに専念した。4年後のロンドンのことは全く考えられなかった。4年間、北京で結果を出すことだけを考え、努力を積み重ねてきた。その北京では、力を発揮することができず、悔しい思いが残った。しかし、すぐにロンドンに気持ちを切り替えることはできなかった。それほど、佐藤は北京にかけていたのだ。

 北京前の佐藤の様子について、坪松はこう振り返った。
「明らかに北京パラリンピックに対してはプレッシャーを感じていましたね。普通だったら『メダルを狙いたい』とかって言うと思うんですけど、インタビューでも、なかなか抱負を口にしようとしなかったんですよ。不安とプレッシャーが入り混じっていたんでしょうね。ちょうど記録も伸び悩んでいた時期でしたから。それで『北京に出れる、出れないは結果だから、そこばかりを考えるな。北京が人生の終着点ではないんだぞ』と言ったんです。だって、そうでしょ。そりゃ、パラリンピックに出場できるに越したことはないですよ。でも、それが彼女の人生の最終目標ではない。ましてや、パラリンピックに出場できなかったからといって、彼女の価値が下がるわけじゃないんですから」

 尊敬する上司の言葉に、佐藤はどんなに救われた思いがしたことだろう。だが、それでも彼女は責任感を強く感じていた。アテネ後、少しでも練習時間を確保したいと、会社に掛け合い、パラリンピアンとしての活動ができるように体制を整えてもらった。それだけに、北京で結果を残すことが自分に課せられた使命だと感じていた。本番直前になってヘルニアを患ったのも、少しでも記録を伸ばそうと追い込み過ぎたことが原因だった。そこまでの思いを抱いて出場した北京で本来のパフォーマンスができなかったのだ。「北京にかける思いが強かっただけにショックが大きくて、次に進む力がわいてこなかった」のは当然だろう。
「パラリンピックを目指す以外の生き方もあるのかな……」
 佐藤はふと、そんなことを考えていた。

 しかし、1年後にはフィールドに戻っていた。パラリンピックを目指すかどうかはわからなかったが、とにかく北京での悔しい思いが残ったままにするわけにはいかなかった。
「気持ちの切り替えができていたわけではないんですけど、とにかくやりながら気持ちを整理していこうと思ったんです。フィールドに行けば、自然と気合いが入るという自分の性格的なこともわかっていましたからね。じっとして考えるよりは、動きながら考えようと思ったんです」
 その後、佐藤のアスリート魂に火が灯るのに、そう時間はかからなかった。いつの間にか、佐藤は再びパラリンピックを目指すようになっていた。

 一方、坪松はそんな佐藤の様子に少しも驚いてはいなかった。
「私自身は、佐藤は北京の時に既にロンドンのことは考えていたと思いますよ。もちろん、その気になるには時間を要したと思うし、悩んだとは思うけど、でも、やっぱり無意識にロンドンのことは頭にあったんじゃないかな。だって、ケガをして競技が続けられないというのなら仕方ないけど、辞める理由なんてどこにもないわけだから。だから、私としては“佐藤はまた、パラリンピックを目指すだろうな”と思って見ていました」

 坪松が予想していた通り、2010シーズンを迎えた頃には佐藤はしっかりとした足取りでロンドンへと走り始めていた。しかし、佐藤にとってパラリンピックの位置づけは北京前とは全く違うものとなっている。
「アテネはビギナーズラックで出場したという気持ちがあったので、次の北京こそはしっかりと4年間積み上げて、自分の力でパラリンピックの舞台に立って世界と互角に戦いたいというのがあったんです。もう、そのことしか頭になくて、終わってからの人生のことなんて、何も考えていなかった。それこそ、北京の舞台に立てなければ、自分の価値はないと思うくらいに追いこんでしまっていたんです。でも、今は自分の生活の中に走り幅跳びがあって、その先にあるパラリンピックは長い人生の中の大切なポイントの一つとだと思っています」

 踏み出した新たな一歩

 ロンドンパラリンピックに向けて走り始めた佐藤は、新たな挑戦を始めた。これまで健足側だった踏み切りを、義足側にかえたのだ。これがどれだけ勇気のいる決断だったかは想像に難くない。普通、左右をかえただけでもバランスが崩れ、感覚がわからなくなってしまう。体の動きがこれまでとは逆になるからだ。さらに、健足と義足とでは接地の面積一つとっても異なるため、左足で覚えた踏み切りの感覚を単に右足に移行するのではなく、義足としての新しい感覚を体に覚えさせなければならない。これは時間を要する作業だ。高いリスクを背負っても、佐藤が踏切の足をかえたのはなぜなのか。

「実は北京の前にもかえようかどうか迷ったんです。でも、その時はちょっと時間がなくて……。それに『絶対に出場しなければいけない』という思いがあったので、リスクを冒した挑戦はすることができませんでした。でも、北京ではヘルニアを患ったこともあって、“やりきれなかった””という後悔が残った。それでロンドンを目指そうと思った時に、“どうせやるなら、新しいことにチャンレンジしたいな”と思ったんです」

 実際、片足切断の世界のジャンパーたちは、義足側で踏み切っている。少しでも距離を伸ばそうと、義足のカーボンの反発力をいかそうとするからだ。しかし、佐藤は自分の足で跳ぶことにこそ意義を感じていた。いや、世界のジャンパーの中にも、佐藤と同じく「自分の足で跳びたい」という思いを抱いている者は少なくないかもしれない。だが、そこは勝負の世界だ。少しでも可能性があるのなら、チャレンジしない手はない。佐藤自身も、今度こそ悔いが残らないよう、でき得る全てのことをやる覚悟なのだろう。

 オフには踏み込みの力をつけるために、義足側の大腿や臀部を鍛えなおした。そのおかげで以前よりも体幹のバランスもよくなり、踏み込みに力強さが出てくるようになってきた。だが、佐藤にとって最も肝心な“イメージ”はまだ出来上がっていない。
「健足側で踏み切っていた時は、“こう踏み切って、こう空中に飛び出して……”っていうイメージが頭の中にあったので、自然と体が動いていました。でも、義足にかえてからは、助走から着地まで、自分がどういう線を描いて跳んでいるのか、わからないんです。踏み切る時、反対側の足を蹴り上げるんですけど、下手したらその足が上がってこなかったり(笑)。頭と体がつながっていない状態ですね」

 佐藤の自己ベストは4メートル46。義足にかえて1シーズン目で4メートル37を記録しているだけに、イメージさえつかむことができれば、十分に自己記録を更新できると考えている。それは坪松も同じだ。
「課題はもう、佐藤には見えてきていると思いますよ。あとはやっぱりイメージをつくれるかどうかだろうね。健足と義足とでは、踏み切った時に得られる情報量はおのずと違うと思うんです。だから健足で踏み切っていた時と同じ感覚を得ようとしても無理。“義足ではこうなんだな”という感覚を、佐藤の中でつかめるかどうかだと思うね」

 2007年以来、最も近くで佐藤のジャンプを見てきた坪松の佐藤への願いはただ一つ。佐藤自身が「これだ」と思うジャンプを完成させることだ。
「私にとってはパラリンピックに出る、出ないよりも、佐藤がジャンプを完成させて、自己ベストを出すことの方が大事かな。“あぁ、これが踏み切りの足をかえた佐藤のジャンプなんだな”というような、いいジャンプを1本、見せてほしいよね」

 パラリンピックイヤーである来年、佐藤はちょうど30歳を迎える。走り幅跳びでのパラリンピック出場は、ロンドンが最後だと考えている。だが、彼女の言葉に気負いは全く感じられない。
「周りからは“もう1年しかない””って言われるんですけど、私は“まだ1年ある”と思っています。だから焦りはありません。とにかく今は一つ一つ、自分のやるべきことをやるだけです。その結果、パラリンピックに出場できたら嬉しいですね。そして、ロンドンでは気持ちよく跳んで、納得して終われれば……。30代はどんなスタートを切るのか、今から楽しみです」

 世界の頂は遠く、険しい。そして、そこに到達するためには高く、厚い壁がそびえ立ち、いばらの道が長く続く。しかし、それでも佐藤は決して歩みを止めようとはしない。なぜなら、挑戦することこそが、自分との戦いであり、佐藤の人生そのものだからだ。

(おわり)

佐藤真海(さとう・まみ)プロフィール>
1982年3月12日、宮城県生まれ。早稲田大学2年時に骨肉腫を発症し、右足ヒザ下を切断した。退院後、東京都障害者総合スポーツセンターで水泳を始める。その後、競技用義足の第一人者・臼井二美男氏と出会い、陸上競技へ。2004年アテネ(9位)、08年北京(6位)と、走り幅跳びで2大会連続でパラリンピックに出場した。04年、サントリーに入社。現在、サントリービジネスエキスパート株式会社お客様リレーション本部で次世代育成プログラムの運営に取り組んでいる。現在、早稲田大学大学院スポーツ科学学術院(社会人コース)に在籍中。




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(斎藤寿子)
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