
ガシャン! ガシャン! バーベルが床に落ちる音が練習場に響き渡る。声にならない声を出し、シャフトがしなるほどのウエイトをつけたバーベルを頭上に挙げていたのは、157センチの小さな体だった。2011年ウエイトリフティング世界選手権62キロ級日本代表の糸数陽一(20歳)。ロンドン五輪出場を目指す若きリフターだ。
沖縄本島東海上に浮かぶ久高島の別名は「神の島」。琉球の創世神であるアマミキヨが最初に降り立ち、国づくりを始めた琉球神話の聖地とされている。周囲約8キロ、人口約270人の小さな島で糸数は生まれ育った。
ウエイトリフティングに出会ったのは中学2年の時。当時の担任だった宮良三夫(現八重瀬町立東風平中学校教諭)に「ウエイトリフティングという競技があるから、見学にいかないか?」と声をかけられた。体験学習で連れて行かれた先は豊見城高校。同校ウエイトリフティング部は全国屈指の強豪だ。
きっかけは飛行機に乗りたい 糸数は小学校では陸上、中学からはバドミントン部で活動していた。なぜ宮良はウエイトリフティングを糸数に勧めたのか。
「前任の中学校に、今もウエイトリフティングで活躍する上地克彦(現自衛隊体育学校)がいたんです。彼がそうだったように、優れた跳躍力、瞬発力と真面目で素直な人間性が糸数にもあると感じました。事実、彼は小学校時代に幅跳びで全国大会に出場しています。バドミントンで伸び悩んでいたようですし、ウエイトリフティングなら彼の能力が最大限生きると思ったんです」
ウエイトリフティングは、バーベルを一気に頭上へ引き上げて立ち上がるスナッチ。第1動作(クリーン)でバーベルを肩の高さまで引き上げて立ち上がり、第2動作(ジャーク)で全身の反動を使って差し挙げるクリーン&ジャーク(略してジャークともいわれる)の2種目のトータル重量で争う。パワーだけではなく、バーベルを引き上げる瞬発力も重要となる。
糸数は生まれて初めてバーベルを挙げた瞬間をこう振り返る。
「初経験で60キロを挙げられたんです。周りの方から“おお。すごいな”と言ってもらいました。今考えれば、入部させるためのお世辞だと思うんですけど、僕も乗り気になってしまいました(笑)」
さらに魅力的な言葉が心を揺さぶった。
「全国大会に出場すれば飛行機に乗れるよ」。離島育ちの糸数は当時、飛行機に乗ったことがなかった。飛行機に乗りたい、全国大会に行ってみたい。そんな単純な動機が、ウエイトリフティングに挑戦する決め手になった。
「しかも身長が小さいのでバドミントンをやっていて、手足のリーチに悩んでいたんです。その点、階級制のウエイトリフティングであれば、身長が小さくても関係ないと思いました」
その後も、高校入学までに数回、豊見城高に足を運んだ。バーベルが上がるか、上がらないか。このシンプルさが糸数をウエイトリフティングに引き込んだ。手の小ささをカバーするため、高校の監督から握力強化にと勧められたのはソフトテニスボールを握るトレーニング。糸数はさっそく取り組み、授業中もポケットに忍ばせたボールを握り続けた。
迎えた2007年4月、糸数は豊見城高に進学し、ウエイトリフティング部に入部した。だが、待ち焦がれた高校生活は「正直……部を辞めたかったですね」と語るほど最初は苦しいものだった。バーベルを背負ってのスクワットやバーベルを引き上げるトレーニングの繰り返しに全身筋肉痛は当たり前。さらに、バスで1時間ほどかかる下宿先への帰宅も億劫だった。
「筋肉痛で歩くのもままならない状態で、また1時間かけて帰るのかと(苦笑)。これが2カ月くらい続いて、“絶対続けられんわ”と思いました」
押し潰れそうな気持ちを繋いだのは、自分の体の変化だった。
「スクワットで80キロしか上げられなかったのが、2カ月後は100キロを挙げられるようになりました。もちろん、その時も体中が痛い。それでも、たった2カ月で自分が強くなっていると感じました」
糸数は「“重さ”という明確な数値があるために、自分がどれだけ成長したかがわかりやすい。これがウエイトリフティングのおもしろさ」と話す。その後も自己新記録を重ね、いつしか「辞めたい」という気持ちはどこかへ消えていた。
では、なぜ糸数は競技を始めて間もないにもかかわらず、急速な成長を遂げることができたのか。それには故郷の久高島で育ったことが大きく関係していた。
「島ということもあって、周りに漁師をやっている人が多かったんです。僕の父もやっていました。その手伝いで重い網を引っ張ったり、一日中海で泳いだり。遊ぶにしても、ゲームなんかないですから、島全体を使ったドロケイ(警察と泥棒に分かれて行う鬼ごっこ)で走り回っていました。そういうことが知らず知らずのうちに、トレーニングになっていたと思います」
自然の中での生活が、高校の厳しい練習にも耐えうる下地をつくっていた。その意味では糸数は、ウエイトリフティングの神に導かれた少年だったのかもしれない。
クセのないところが長所
糸数の名が全国に轟いたのは、高校1年の3月に行われた全国高校選抜大会(2008年)だ。56キロ級で出場した糸数は、スナッチ100キロ、ジャーク115キロのトータル215キロで優勝。競技を始めて1年も経たないうちに日本一となった。もちろん、周りより厳しい練習を行ってきた結果ということはわかっている。それでも「全国ってこんなものなの?」と感じざるを得なかった。
しかし、天狗になれた時期は短かった。高校2年生の6月に行われた九州総体。糸数はトータル3キロ差で優勝を逃した。
「負けたことが一番嫌でしたね。全国総体に向けて“このままではいけない”と気持を切り替えました」
自惚れを取り払った糸数の躍進は凄まじかった。8月の全国総体、秋の国体を制し、春の選抜大会と合わせて年間3冠を達成した。
その活躍が評価され、同年、アジアユース選手権の日本代表にも選出された。ここで糸数はスナッチ101キロ、ジャーク133キロのトータル234キロの高校新記録で優勝。それまでも試合で高校記録を出したことはあったが、すべて沖縄県予選でのもの。県予選での記録は非公認なため、アジアユースでの結果が、糸数にとって初の公認された高校記録だった。
「初めてでもあり、しばらく自己ベストが出ていなかったのでより嬉しかったですね。国際大会も初めてだったんですけど、不安ではなくワクワクする気持ちが強かったです。減量もうまくいったので、すべてが良い方向に回ったと思います」
09年には世界選手権56キロ級日本代表に選ばれ、ここでも高校記録を更新。高校最後の1年は階級を62キロ級に上げ、2年連続の高校3冠と2階級制覇も成し遂げた。
さまざまな出来事を経験した高校時代に、糸数はある出会いも果たしていた。現ウエイトリフティング男子日本代表監督の稲垣英二だ。稲垣が初めて糸数を目にしたのは、糸数が高校2年の時の全日本ジュニア代表の合宿。関係者から「いい選手が出てきた」と耳にしていた。
「実際に見てみて、クセのないリフティングをする選手という第一印象を受けましたね」
稲垣のいう“クセ”とは、能力の高い選手に限って力任せにリフトアップする傾向が強いということ。パワーだけのリフティングは高校までは通用しても、大学に入って伸び悩み、そのまま引退。ウエイトリフティングが盛んで、毎年のように優れた選手を輩出する沖縄出身選手には特にそういったケースが多いと稲垣は語る。
「その点、糸数は全身の力を使っていて、フォームにもクセがありませんでした。筋肉のつき方も良くて、体の使い方も柔らかい。バランスが取れていたので、彼はいい選手になると感じました」
日本大学に進学した2010年、糸数はJOCの強化指定選手に選ばれた。現在は味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)で稲垣と共同生活を送っている。共同生活をしてみて、稲垣が感心したことがある。普段、糸数がインターネットの動画サイトで「こんな選手の映像がありました」と報告してくるのだ。厳しい練習から離れた時にも、ウエイトのことを考えている。“強くなりたい”という糸数の思いに、稲垣は「本当にウエイトリフティングが好きなんだな」と感じた。
本格的に競技を始めてから3年足らずで日本のトップを争う選手になった。よき指導者にも恵まれ、最高の環境で鍛錬を積むことができるようになった。しかし、オリンピックに向けて走りだそうとした2010年、糸数は、初めての挫折を味わうことになる。舞台は自身2度目の世界選手権だった――。
(後編につづく)

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糸数陽一(いとかず・よういち)プロフィール>
1991年5月24日、沖縄県生まれ。中学2年時にウエイトリフティングに出会い、高校入学とともに本格的に競技生活を開始。豊見城高時代には2年連続の高校3冠を達成。08年にはアジアユース選手権優勝も果たした。日本大学に進学した10年からJOCの強化指定を受け、味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)を拠点に活動している。現在は4月の全日本選手権とロンドン五輪出場権がかかるアジア選手権にむけてトレーニング中。階級は62キロ級。公式の自己ベストはスナッチ120キロ、クリーン&ジャーク155キロのトータル275キロ。身長157センチ。
(鈴木友多)
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