※4月からスタートする、このコーナーでは、シーズン中は時間があれば神宮球場のライトスタンドでスワローズの応援をしているという燕党の当HPスタッフライターが、東京ヤクルトを中心に野球を題材にして月2回、コラムを執筆します。

 東京ドームの巨人−ヤクルトの開幕シリーズは印象に残る試合が多い。1988年、ダグ・デシンセイが記念すべき第1号アーチを放った東京ドームのこけら落としゲームに、90年の巨人・篠塚利夫(現・和典)のライトポール際への“疑惑のホームラン”、そして95年の開幕第2戦、巨人・桑田真澄の危険球退場からの大逆転勝利……。
 そして何を措いても97年、小早川毅彦の3打席連続ホームランは忘れられない。あの年の巨人は清原和博、石井浩郎、エリック・ヒルマンと他球団から主力を引き抜き、優勝間違いなしと言われていた。しかも開幕戦の先発投手は前年まで3年連続で完封勝利を収めていた斎藤雅樹。そんな絶対的エースを広島を戦力外になってやってきた伏兵が打ち砕いたのだ。これで勢いに乗ったヤクルトは、大方のBクラス予想を覆し、日本一になる。

 あれから15年経った先日の巨人−ヤクルトの開幕戦も両チームの構図は極めて似ていた。巨人は村田修一、杉内俊哉、デニス・ホールトンと大型補強を敢行し、圧倒的な優勝候補。片やヤクルトは昨季2位とはいえ、青木宣親が抜け、シーズン前の予想は決して芳しくない。だがフタを開けてみれば、結果はヤクルトの快勝。エースの石川雅規が、あわや開幕戦史上初のノーヒットノーランかと思わせる快投で強力打線を封じこんだ。

 この日の石川は制球力が抜群だった。インコース、アウトコースの巧みな出し入れで巨人の各打者に的を絞らせなかった。身長167センチと小柄な左腕から繰り出されるボールに目を見張るスピードボールや、分かっていても打てないようなウイニングショットはない。それでもコーナーに決まれば、どんな好打者揃いの打線でも攻略は容易ではないことを改めて証明した。

 石川の惚れ惚れするようなコントロールはどうやって培われたのか。本人によると、少年時代にやっていた“ボール遊び”が原点ではないかと語っていた。
「テレビを見ながら寝転がって、天井に向かってポーンポーンとボールを投げていたんです。天井ギリギリを狙って当てないようにしながら、ちゃんと投げた左手でキャッチできるように投げていました。家でゴロゴロしながらだったので、半分、遊びなんですけど、どう回転をかけたら投げたところにボールが戻ってくるかを考えながらやっていましたね。別にコントロールを良くするためという感覚は全然なかったんですけど、今、振り返るとそれがすごく良かったですね」

 同じようなトレーニングは、あの江夏豊もやっていた。江夏の場合、天井の一点を狙ってボールをぶつけ続け、その部分だけにボールの跡がくっきりついていたとの逸話がある。それほど恐るべきコントロールを誇っていたということだ。石川の優れた制球力も、少年時代からの小さな積み重ねが生みだしたものと言えるだろう。

 変化球に対する考え方も、石川は独自のものを持っている。通常、変化球は大きく曲げてストライクからボールにするものというイメージがある。だが、彼の発想は全く逆だ。
「小さな変化でいいから、できるだけバッターの手許で近いところで変化させて、バットの芯を外したい」

 これが石川の変化球に対する哲学である。あえてストライクからボールに曲げる必要はなく、まずはストライクを投げることを第一に考える。開幕の巨人戦で奪った25個のアウトの内訳はゴロが10個、フライが12個。三振はわずかに3つだった。いかに打者の打ち気を誘って凡打の山を築くか。これを徹底した成果が9回1死までのノーヒットにつながった。

 さて、石川の快投をきっかけにヤクルトは初戦、2戦目と連勝し、3連戦を2勝1敗と勝ち越した。これは、あの小早川の3連発が飛び出した97年とまったく星取りである。ちなみに3戦目に敗れた際の巨人の先発投手がいずれも背番号「18」だった(97年=桑田、12年=杉内)というのも不思議な巡り合わせだ。

 歴史は繰り返す。小さなエースがみせた巨大戦力への先制パンチは、今季のセ・リーグ戦線に波乱を起こすかもしれない。

(次回は4月16日に更新します)

(石田洋之)
◎バックナンバーはこちらから