8月31日からの神宮球場での中日3連戦は「グレートセントラル」と銘打ち、東京ヤクルトは1978年初優勝時の“レジェンドユニホーム”を着用して戦った。
「なんだか今の選手が着るとかわいらしい感じがするね(笑)」
 そう目を細めながらユニホーム姿の選手たちを見つめていたのが、78年のV戦士、若松勉である。
「でも、僕らの時はもうちょっと帽子の色は青っぽかったような気がするな。それに赤のラインもあんなに鮮やかじゃなかった」
 意外なほどに熱くユニホームについて語るところに、思い入れがひしひしと伝わってきた。
(写真:2年目の山田と笑顔を見せながら練習する比屋根(左))
 そんな優勝ユニホームのご利益があったのか、ヤクルトは2勝1分と3連戦でひとつも負けなかった。畠山和洋、上田剛史、松井淳、館山昌平と連日のように主力選手が故障で登録抹消されるなか、この3連戦の陰のヒーローとも言えるのが、昇格即スタメンで1番・ライトに抜擢されたルーキーの比屋根渉である。

 初戦では2回に一時は逆転となるプロ初タイムリーを放つと、1点を追う9回には先頭打者で出塁し、貴重な同点のホームを踏んだ。2戦目は初回のセンター前ヒットで、ラスティングス・ミレッジの先制3ランの呼び水となった。3試合で13打数6安打1盗塁。トップバッターとしての役割を果たし、起用した小川淳司監督も「いい仕事をしている」と称えていた。

「プロに慣れたというか、試合に出る中で緊張がいい感じでほぐれてきたんじゃないかと思います」
 結果が出ている理由を背番号0の本人はそう分析する。社会人の日本製紙石巻からドラフト3位で入った俊足の外野手。アマチュア時代の実績は充分だ。沖縄尚学高では甲子園に2度出場し、城西大では4年秋に首位打者を獲得。日本製紙石巻でも久古健太郎とともに初の都市対抗へチームを牽引した。

 それでもプロのレベルは、アマチュア時代とは比べものにならないくらい高かった。
「とまどったのは全部と言ってもいいくらいです。ピッチャーが投げるボールは低めでも最後にグッと伸びてくる。普通のアマチュアのピッチャーなら垂れてボールになるので、同じ感覚で見送ったら、きっちり低めのストライクゾーンに決まるんです」

 春のキャンプで臨時コーチを務めた若松は「スイングスピードがまだプロレベルではなかった。線は細くてもパンチ力があると聞いていたけど印象が違った」と比屋根に対する率直な最初の感想を明かす。若松が指導したのは下半身強化。内転筋にしっかりと力を溜め、腰の回転とともに一気に爆発させることで打球を飛ばす。下半身の力を最大限に活用したからこそ、若松は170センチにも満たない小柄な体でも名球界入りするバッターとなった。この打撃論は“怪童”中西太から若松が教わり、宮本慎也、田中浩康ら今のヤクルトの選手たちにも継承されている。

「若松さんの指導は全てが役に立ちました。こんな僕に教えていただいて、本当にありがたかったです」
 小さな大打者の教えを吸収し、開幕1軍を勝ち取った比屋根だが、すぐに打てるようになるほどプロはラクな世界ではない。衝撃を受けたのはプロ初スタメンとなった4月8日の中日戦。顔を合わせたのは、46歳の大ベテラン山本昌だった。プロ29年目の左腕に、1年目の右バッターは赤子の手をひねるように打ち取られた。
「スピードはそれほどでもないと聞いていたので、なんとかなるかなと考えていたのですが甘かったです。コーナーコーナーにビックリするくらいコントロールよく決まる。“これは打てないな”と痛感しました」

 せめて打てなくても得意の足をアピールしたいところだったが、盗塁失敗や牽制死が相次ぎ、4月中旬には2軍に降格。以降も1軍と2軍で行ったり来たりを繰り返し、初ヒットが出た時にはもう8月になっていた。だが、その5日後には再び戸田行きに。城石憲之コーチからは「まだバットが振れていないぞ。もう失うものはないんだから思い切ってやれ」と指摘を受けた。

 ファームできっかけを与えてくれたのは池山隆寛コーチの一言だ。
「バットを寝かせてポイントを前にして打ってみろ」
 アドバイスに従って試したところ、思いのほかスムーズにバットが出るようになった。試行錯誤だったバッティングに一筋の光が見えた。比屋根は灼熱の太陽の下、黙々とバットを振り続けた。打撃のみならず、守備も志願して度会博文コーチとマンツーマンで特訓を重ねた。

 8月12日の2軍落ちから19日、再び1軍に戻ってきた比屋根は肌の色ならミレッジにも負けないくらい真っ黒に日焼けしていた。それが戸田で猛練習を積んだ何よりの証だった。昇格直後の活躍を飯田哲也コーチは「一生懸命やっているのが伝わってきた」と評価する。
 
 もちろん現役時代の飯田のようにトップバッターとして定着するには、まだまだクリアすべきハードルは多い。若松は比屋根の打撃に関して「ヒットは出ているけど、こすった当たりが多い。まだ芯で完璧に捉えていないし、インパクトからの押し込みが足りない」と話す。そして「バッティングで重要なのはインパクトの瞬間のスピード。ここが速くないと強い打球は打てない。今後はここを意識してバットを振りこんでほしい」と次なる課題をあげた。

「盗塁も含めて次の塁を積極的に狙うのが持ち味」と本人が語る走塁面でも、8月1日の阪神戦では暴走で同点のチャンスを潰した。走塁死はチームの雰囲気を一気にしぼませるだけに、常に的確な状況判断が求められる。

「今はとにかく経験を積む時期。失敗を恐れずにやってほしい。いいトップバッターに成長してほしいね」
 飯田コーチも新1番の飛躍を期待している。ちなみに中日3連戦で復刻されたユニホームを使用していた78年当時、比屋根と同じ背番号0の選手はいなかった。ヤクルトで背番号0の第1号は柳田浩一(昌夫、91年〜)。以降、城友博(94年〜)、代田建紀(00年〜)、志田宗大(03年〜)と足のある外野手が、この番号を受け継いでいる。だが、いずれの選手もレギュラーとして長く定着はできなかった。

 背番号0の1番打者へ、そして0番といえば、1番に名前が挙がる選手へ――。伝説のユニホームでの活躍を出発点に、比屋根が0番に1つずつ新たな歴史を刻めるかどうかは、ひとえにこれからの働きぶりにかかっている。

(次回は9月17日に更新します)

(石田洋之)
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