近年の日本バドミントン界の女子ダブルスは、多士済々である。一世を風靡した“オグシオ”こと小椋久美子&潮田玲子組、北京五輪4位の“スエマエ”こと末綱聡子&前田美順組、ロンドン五輪銀メダリストの“フジカキ”こと藤井瑞希&垣岩令佳組……。日本ユニシス実業団バドミントン部女子チームに所属する橋礼華&松友美佐紀組の“タカマツ”も、その系譜に名前を刻もうとしている。2人がペアを結成したのは、聖ウルスラ学院英智高校時代に遡る。
 故郷・徳島を離れ、宮城の聖ウルスラ学院に入学した松友。小中学校時代は全国屈指のシングルスプレーヤーだった彼女は、高校生になってからもその力をいかんなく発揮した。2007年夏、全国高校総体(インターハイ)では、1年生ながらベスト16に入る健闘を見せた。

 そして夏の終わりが近づく頃、松友はひとつの岐路を迎える。チームでシングルスに加えて、ダブルスも兼務するようになったのだ。パートナーは、1学年上の橋。小学校時代からともに全国優勝を達成するなど、世代のトップを走ってきたふたりは、幼い頃からの知り合いだった。橋は奈良県出身で松友の住む徳島とは離れていたが、小学校時代には文通をするなどして交流を深めていた。

 とはいえ、それまではコートに入れば、ライバルだった。松友は橋に対し、「先輩は小学校の頃から、断トツに強かった。先輩に勝つことが目標でしたね」と語れば、橋は「年下には負けたくないので、松友とは、あまり当たりたくないなと思っていました」と本音を口にする。

 互いに実力を認め合っているとはいえ、本来はシングルスプレーヤー同士。そんな2人を組ませた理由を聖ウルスラ学院の田所光男監督はこう語る。
「強気、強気で攻める橋と、冷静に攻撃を組み立てる松友はピッタリ合っていた」

 田所の予見通り、すぐに “タカマツ”ペアは、その才能の片鱗を見せる。翌年3月に行なわれた全国高校選抜大会では、女子ダブルスで優勝。加えて団体戦も制し、聖ウルスラ学院に2冠をもたらした。結成わずか数カ月で“タカマツ”は全国で頂点に立ったのだ。

 窮地を救った急造ペア

 松友が高校2年時のインターハイ。監督の田所にとっては、橋たちが中学に入学して以来の6カ年計画の6年目であり、「歴代最強メンバー」との自負があった。インターハイ3冠には確かな自信を持っていた。

 しかし大会直前の練習で、橋が足を滑らせて足首を捻挫してしまう。その状態を見た田所は苦渋の決断で、“タカマツ”ペアを解体する。聖ウルスラ学院はダブルスのエースを欠いて団体戦へ臨むこととなった。

 一方、主将であり、精神的支柱でもあった橋は責任を感じていた。
「(自分にとって)最後の団体戦で優勝できるチャンスだったのに、私が出なくて負けたらっていうのがすごく嫌でした。申し訳ない気持ちでいっぱいだったんです。でも、松友は“気にしなくていいですよ”と切り替えてくれていました」

 田所は橋の代わりに3年の玉木絵里子を松友のペアに据えた。この急造ペアがどういうダブルスをするのかは田所にもわからなかった。ところが練習で1度も組ませたことのない急なパートナー変更にも、松友は事も無げに対応してみせた。

「何事に対しても状況判断が優れている。どうすべきかを我々が言わなくても、本人がキャッチをして行動できる」と田所は松友の適応力の高さを絶賛する。そんな松友と玉木のペアは決勝で名門・埼玉栄のペアにストレート勝ち。2日間で行なわれた全5試合を1セットも落とさず全勝し、聖ウルスラ学院の5年ぶり2度目の優勝に貢献した。

 “タカマツ”の快進撃

 翌日から始まったダブルスでは橋がケガを押して強行出場した。
「団体戦は他の部員が頑張ってくれた。個人戦(ダブルス)はみんなの分も背負って、優勝したい」
 橋の右足首には、テーピングの上にサポーターが巻かれていた。彼女の強い思いは、1学年下の相棒にも伝わっていたのだろう。復活した“タカマツ”ペアは、連戦連勝。決勝でも大阪代表を寄せ付けず、2−0で勝利。“タカマツ”ペアは、見事にインターハイ初制覇を果たした。

 団体、ダブルスと2冠を獲得した松友は、シングルスも順当に勝ち抜き、準決勝に進出した。準決勝の相手は、小学生時代から全国大会で凌ぎを削ってきたライバルであり、前年の春の全国選抜大会では決勝で敗れた三谷美菜津(金沢向陽)だった。松友は、第1ゲームで20−17とゲームポイントを迎えるが、3連続ポイントを許し土壇場で追いつかれる。それでも慌てず三谷を振り切り、このゲームを獲った。これで流れを掴むと、続く第2ゲームは21−11と圧倒し、ストレートで決勝にコマを進めた。

 決勝の相手は同じ宮城県代表で1学年上の佐藤冴香(常盤木学園)。1カ月前、インターハイの宮城県予選では決勝で敗れていた。のちにロンドン五輪でベスト16入りを果たすレフティーは、170センチの長身から繰り出すフォアを武器としていた。

 だが、松友の意識は敵よりも、自分に向けられていた。当時の心境を彼女は、こう語る。
「インターハイでのシングルスは、県で2つしか出場枠がない中で、私が県大会で勝って出られることになった。先輩たちが出られないなか、私が下手な試合はできない。“絶対勝たなきゃ”と思ってやっていました」

 プレッシャーを力に変え、松友は佐藤にストレート勝ちを収めた。大会5日間で17試合をこなした松友だったが、対戦相手には1ゲームも許さない完勝だった。インターハイ3冠。いつもは厳しい田所監督にも笑顔がこぼれていた。
「先生のうれしそうな顔を初めて見ました。喜んでくれて、本当にうれしかったです」と“孝行娘”は、そう振り返った。

 さらに“タカマツ”ペアの快進撃は続いた。同年9月の国体を制し、選抜、インターハイと合わせてダブルスとして“3冠”を手にした。そして11月の全日本総合選手権では、日本代表の赤尾亜希、松田友美組を破るなど、ベスト4に入る快挙を成し遂げる。準決勝では、この大会で史上2組目の5連覇を達成した小椋、潮田組にストレートで敗れたが、高校最強ペアはシニア相手でも十分通用することを証明した。

 無冠に終わった最後の夏

 順風満帆に来ていた松友だったが、試練が訪れる。3月に行なわれた全国高校選抜新潟大会で団体優勝。そしてシングルスでは、三谷に再び勝利を収め、2冠を達成したが、その代償は大きかった。シングルスの決勝で左ヒザの半月板をケガしてしまったのだ。高校入学以来、国内大会以外にも、ジュニア代表として海外遠征に行くなど、過密スケジュールが続いていた。豊富な運動量を支えていたヒザへの負担の大きさは想像に難くない。

 その後はケガで海外遠征を辞退し、回復に努めた。そして迎えた最後のインターハイ。団体では準決勝で、三谷擁する金沢向陽に敗れ、3位に終わる。松友自身、同学年の亀田楓と組んだダブルスで三谷のペアに敗れ、シングルスでも三谷に屈した。エースで2つの星を落とした聖ウルスラは連覇を逃した。

 個人戦でのシングルスでは、決勝までの5試合すべてにストレート勝ち。そして連覇をかけて対戦する相手は団体戦で苦杯をなめさせられた三谷。またとない雪辱の機会がやってきたのだ。第1ゲームは21−17の接戦で奪う。しかし、ケガの影響で万全ではなかった松友は、続く第2ゲームを落とすと、最終ゲームでも流れを引き戻すことができなかった。結局、リベンジを果たせぬまま、最後のインターハイを終えた。

 松友は「申し訳ない気持ちだけで、3年のインターハイはいい思い出がないです」と振り返った。とはいえ、聖ウルスラ学院では数多のタイトルを勝ち取った。彼女を買っていた田所の予見通りだった。そして田所は松友をプレーヤーとしてだけではなく、その人間性も高く評価する。

 聞けば、松友は学生時代、ジュニアの代表に選ばれるなど、多忙をきわめた。それでも海外遠征に行く前、帰ってきた際には、必ず各教科の先生に挨拶をしに行ったという。授業に遅れた分、与えられた課題も率先してこなした。そういった実直さは、卒業後も変わらない。社会人で初めて給料をもらった後には、恩師である田所にマフラーをプレゼントした。田所は、そんな礼儀正しく、義理堅い教え子を今でも温かく見守っている。

 真の日本一を目指して

 松友は、高校卒業後の進路を、日本ユニシスに決めた。高校1年時から練習に参加していた縁もあった。日本ユニシスの女子バドミントンチームは、08年に創部したばかりの新興チーム。その1期生には、聖ウルスラ学院のOGである平山優がいた。そして何よりそこには、橋がいた。日本ユニシスからのオファーを断る理由はどこにもなかった。

 松友が高校3年時、日本ユニシスはまだ日本リーグで2部に所属していた。入社を直前に控えた10年1月、松友は内定選手として日本リーグの1部・2部入れ替え戦に出場した。
「まだ正式な一員でもない私を試合に使ってくれました。だから出してもらったからには、絶対負けられない、という気持ちでした」

 そうした強い思いで臨んだ1部最下位の三菱電機との入れ替え戦。松友と橋のペアは、重要な一戦の1番手を託された。第1ゲームを接戦の末、落とすが「もしここで負けてしまったらまたイチからやり直さないといけない。早く1部で戦いたい」と、執念を見せる。第2、3ゲームを連取して先勝し、チームに勢いをつけた。2戦目をエースの平山がシングルスで勝利し、日本ユニシスは創部2年目で見事に1部入りを果たした。

 小中高と、それぞれのカテゴリーで優勝を経験してきた松友にとって、日本ユニシスで目指す先は当然、真の日本一。つまりは全日本総合選手権でチャンピオンになることだった。それまでの同選手権での成績は、高校2年ではダブルスで3位、3年ではシングルスで3位。善戦はするものの、頂点には手が届かなかった。小さい頃から何においても一番になりたがった彼女が、この現状に満足するはずはない。“小さな巨人”の快進撃が始まろうとしていた。

(第3回につづく)
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松友美佐紀(まつとも・みさき)プロフィール
1992年2月8日、徳島県生まれ。6歳で本格的にバドミントンを始め、小中学生時に全国大会優勝を経験する。中学卒業後は地元を離れ、宮城の聖ウルスラ学院英智高校に入学。2年生時に全国高校総体埼玉大会でシングルス、ダブルス、団体の3冠を達成した。卒業後は日本ユニシスに入社し、09年度から日本代表入り。10年には世界ジュニア選手権の女子シングルスで準優勝を果たす。日本リーグでは橋礼華と組んで、日本ユニシスの10、11年の連覇に貢献。橋とともに2年連続で最優秀選手賞に選出される。11年には全日本総合選手権の女子ダブルスで優勝し、シニアで初の日本一に輝く。翌12年も制覇し、現在女子ダブルスの日本ランキング1位。同年の国際大会で好成績を残すなど、BWF世界ランキング4位(3月7日現在)に入る。159センチ。右利き。



(杉浦泰介)
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