競技用シューズづくりの腕と知見と経験において、厚生労働省が認定する「現代の名工」にも選ばれた三村仁司(ミムラボ主宰者)の右に出る者はいない。現役時代、あの瀬古利彦(現DeNAランニング・クラブ総監督)が「ランナーにとってシューズは命の次に大切なもの。それを教えてくれたのが三村さん」と語っていたことを思い出す。
 かれこれ四半世紀の付き合いになるが、名工の話が、いつ聞いても刺激的なのは、立脚する視点の精緻さと斬新さに依る。口にする数字は常にミリ単位だ。

 1ミリ――。これは三村がシドニー五輪で金メダルに輝いた高橋尚子について語る際、必ず持ち出すキーワードである。三村によれば高橋の足は右に比べて左の方が8ミリ長かった。そのため同じシューズを履いていたのでは、やや左足が突っ張ったような走りになってしまう。そこで三村はバランスを矯正するため、シドニーでは右足のシューズを左足よりも1ミリ厚くしたというのである。

 当初は右と左で1.5ミリの差をつける予定だった。サンドスポンジで1ミリ、中敷きで0.5ミリ。しかし、これだけ差をつけると本人にバレてしまう。もとより「右足も左足も同じ厚さのシューズ」というのが本人の希望で、レース前に気付かれでもすれば一大事だ。

 しかし、名工の目には右足のシューズを1ミリ厚くしなかった場合、彼女が足のトラブルに見舞われる姿が見えていた。そこで三村は覚悟を決めた。「黙って、この計画を実行する。高橋にも小出義雄監督にも(当時、勤めていた)アシックスの社長にも一切、本当のことは言わん。そのかわり、勝たんかったらワシは責任をとって会社を辞める。辞表を懐に忍ばせて、あのレースに臨んだんです」

 金メダルの2日後、三村は、そっとシューズの秘密を高橋に明かした。高橋はキョトンとした面持ちで「えっ、そうだったんですか?」と言い、感謝の言葉を口にしたという。「マメひとつできませんでしたよ」

 モスクワでの世界選手権。女子マラソンのエースは3月の名古屋ウィメンズを制したロンドン五輪代表の木崎良子だ。

 2.5ミリ――。木崎は左足よりも右足の方が大きい。腕の振りも左に比べて右の方が強く、ために右半身の力に頼ったフォームになっている。三村に秘策はあるのか。マエストロの企みが気になる。

<この原稿は13年7月10日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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