
ドラフト指名選手を除けば、落ち葉焚き程度の寂しいストーブリーグになっている感が否めない東京ヤクルトだが、今季も戦力外通告を受けた選手が9名いる。育成選手として再契約を結んだ者、球団スタッフとして採用された者、現役続行を希望し、11月10日のNPB合同トライアウトを受けた者……行く先は人それぞれだ。そんな中、ユニホームを脱ぎ、第2の人生へ踏み出す決意を固めた者がいる。外野手の楠城祐介である。
(写真:左キラーとして2軍での打率は3割超も、1軍で豪快な打撃をみせる機会はなかった) 楠城を最初に見たのは、まだ改装前の神宮球場だった。7年前の東都大学リーグ戦。ドラフト候補と注目されていた日大の左腕・篠田純平(現広島)からライトへ特大のアーチを描いた右打者がいた。逆方向にもかかわらず、引っ張ったように伸びる当たりに目を見張った。その打球の主が青山学院大の5番打者・楠城だった。
その後、社会人のパナソニックを経て、2009年にドラフト5位で東北楽天へ。12年からは青木宣親(ブルワーズ)が抜けた外野陣を補強すべく、トレードで燕戦士の一員となった。しかし、同じ年、助っ人として来日したラスティングス・ミレッジが走攻守で活躍をみせ、ウラディミール・バレンティンもホームランを量産した。ライトとレフトが外国人、しかも右打ちで固定となると、どうしてもセンターは守備範囲が広く、左打ちの選手という流れになる。
楠城の売りは先述したように打力だ。2年間、昇格のチャンスはなかなか巡ってこなかった。結局、1軍出場はゼロ。宮崎で行われた10月7日のファーム日本選手権後、帰京を命じられ、戦力外通告を受けた。
「違うチームだったらとか、そういうことは一切、思いませんでしたね。1軍に上がれなかったのは単に自分の力が足りなかった。それだけの話です」
通告を受け、楠城は迷った。一縷の望みをかけ、合同トライアウトを受けるべきか、それとも潔くバットを置くべきか……。元ライオンズのキャッチャーで楽天の編成部長も務めた父の徹をはじめ、いろいろな人に相談した。
そんな時、ある先輩からの一言が胸にストンと落ちた。
「トライアウトを受けて現役を続けても、また数年後には同じことになるかもしれないぞ。いつかはユニホームを脱ぐことになるんだから、早く次の人生に進むのもいいんじゃないか」
プロに入って結婚し、子どもも産まれて家族ができた。自分だけが夢を追いかけるわけにはいかない。気持ちは引退へと傾いた。
現役に対する踏ん切りがついた背景には、今季、2軍ながら充実したシーズンを過ごせたとの思いもあった。サウスポーが登板した際のスタメン、代打として63試合に出場。打率.312、6本塁打、29打点の成績を残した。
「おそらくシーズンも終盤になれば、僕が来季の構想から外れることは分かっていたはずです。でも(2軍の)真中(満)監督(来季より1軍チーフ打撃コーチ)の起用法は変わらなかった。実績のある岩村(明憲)さんにも代打を出して、僕を使っていただいたんです。ファーム選手権でもスタメンで出していただいたし、2軍だけど最後まで必要な戦力としてみてもらったことで、プロに入って一番、楽しく野球ができました。だからこそ、次のステップに進んでもいいかなと思えるようになったんです」
今季は杉村繁、宮出隆自両打撃コーチのアドバイスで、打撃フォームを大きく変えた。アゴを左肩に乗せ、上からボールを見下ろすスタイルにしたことで、サウスポーからおもしろいようにヒットを量産できた。
「今までインコースに食い込んでくるボールは苦手で、相手にもそこを狙われていました。でも、今年は“インコースへ投げてこい”と思えるほど打ち返す自信がありましたね」
結果、ファームとはいえ、シーズン中、打率3割は1度も切らなかった。
「それが1軍から声がかからない自分にとって、せめてもの意地でした」
好調を維持し続けることで、どうにかして1軍の監督、コーチに認めてもらいたい。願いは届かなかったものの、最後の最後まで1軍に上がれる準備はできていた。
今季は神宮球場でホームランも放った。8月1日の楽天戦。1軍の本拠地で試合をする滅多にない機会だった。
「あの日は気合が入っていました。実は神宮でプレーするのが最後かもしれないと思って、初めて家族を球場に呼んだんです」
5番・レフトでスタメン出場した楠城は5−9と4点を追う6回、楽天の川井貴志からインコースのストレートを左中間スタンドに運んだ。この一発で追撃ムードを高めたヤクルトは7回以降も得点を重ね、11−9で逆転勝ちを収めた。
「移籍した1年目、オープン戦で神宮で初めて打席に立った時も代打で二塁打を打ちました。大学時代も含めて神宮は相性のいい球場だったのかもしれません。1軍の公式戦で打てれば最高だったんですけど……」
5年間のプロ生活で、1軍出場は楽天時代の4試合。安打はわずかに1本である。それゆえに一生忘れられぬ思い出だ。3年前の5月2日、オリックス戦。8番・レフトでプロ入り初スタメンを果たすと、左腕の伊原正樹から第1打席にセンター前ヒットを放った。
「ベンチに戻ると、大学の先輩でもある高須(洋介)さんに“これでオマエもようやくプロ野球選手になれたな”と声をかけられました。ヒットを打ったことより、その言葉にジーンときましたね」
記念のボールはマーティ・ブラウン監督(当時)が翌日、メッセージとともに、その日のオーダーとピッチャーを書き添えて渡してくれた。
「その日の先発は田中(将大)だったんです。その田中が今年はものすごい活躍をして楽天が優勝した。そして、お世話になった高須さんも戦力外を受けてチームを離れる。そんな年に自分が引退するのも何かの縁かもしれません」
引退は決めたが、今後の進路は決まっていない。
「もうすぐ30歳。正直、不安はあります。母からは“40歳までの10年で一人前の男になれるかどうかが決まる”と言われました。勉強もしっかりして、自分を高めていきたいですね」
30年間の大半を野球とともに過ごしてきた。何らかのかたちで野球に恩返しはしたいと考えている。可能であれば野球やスポーツに関わる仕事を探すつもりだ。
別れ際、「プロではホームラン打てませんでしたけど、第2の人生でホームランを狙いますよ」と楠城は笑った。その後ろ姿に、もう背番号はない。背番号56は来季、他の選手がつけてプレーすることだろう。だが、これまでの野球人生で喜びも苦しみも積み重ねてきた証が彼の大きな背中から消えることはない。それは、この先も楠城祐介にしか背負えない永久欠番である。
(次回は12月2日に更新します)
(石田洋之)
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