ブルージェイズに所属する川崎宗則が15日、メジャーに昇格した。その日のツインズ戦でマルチヒットを記録。18日の試合後には再びマイナー降格が通告されたが、ジョン・ギボンズ監督はチームに必要な戦力であることを認めている。日本では打率3割を5度もマークし、盗塁王や最多安打のタイトルを獲得したものの、米国では厳しい生存競争を強いられている。2012年のメジャーリーグ挑戦以降は、毎年、マイナー契約からのスタートだ。だが、日本でも人気を博した明るいキャラクターとハッスルプレーで、本場米国のファンからも愛されている。まるで野球少年がそのまま大きくなったような川崎の“野球愛”を4年前の原稿で覗いてみよう。
<この原稿は2010年7月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>
野球が好きで好きでたまらない――。プレー中の川崎宗則の顔には、そう書いてある。
「自分の試合を観に来るファンがいる。少なからず僕を応援してくれている人がいる。そういう人たちに元気になってもらわなければいけない。
いいプレーをしても悪いプレーをしても、常に胸を張り、正々堂々とする。僕が心がけているのはそれだけです」
マスクは甘いが大の負けず嫌い。
――昨季の打率は2割5分9厘。何が悪かったのでしょう?
そう問うと、間髪入れずにこう答えた。
「まぁ打つのがヘタクソだったってことですよ。だけど僕は打率3割を目指して野球やっているわけじゃない。常に10割を目指している。だから(一昨年の打率)3割2分1厘も2割5分9厘も僕にとっては一緒なんですよ」
今季は絶好調だ。5月31日現在、打率3割3分9厘でパ・リーグ打撃ベスト10の3位につけている。78安打は西岡剛(千葉ロッテ)と並んでリーグトップだ。
しかし、川崎にすれば3回のうち2回もヒットを打つことに失敗している、となるのだろうか。
ホークスの人気選手から全国区のヒーローになったのは2006年に行われた第1回WBCだ。決勝のキューバ戦。舞台は米国サンディエゴのペトコ・パーク。
1点差に迫られた9回表、川はイチローのライト前ヒットで二塁から俊足を飛ばし、本塁を狙う。微妙なタイミングだったが、ブロックの隙間から右手をねじ込んでホームベースを掃き、貴重な追加点を奪った。
神の右手――。国民的ヒーローの誕生を祝うかのようにメディアは絶賛した。その代償として右ひじを負傷し、レギュラーシーズンの開幕には間に合わなかった。
4年前の出来事なのに、つい昨日のことのように感じられるのは、このプレーの印象があまりにも強く、鮮やかだったせいか。
「そこしかない、という感じで(ホームベースの)一角が輝いて見えた。でも、あれは会心のプレーではない。本当はケガをしてはいけない。もっと効率のいいスライディングの仕方があるんです。帰国してからコーチに何回も練習を命じられました」
昨日よりも今日、今日よりも明日。野球がうまくなりたいという気持ちは29歳の今、さらに強くなっている、と語る。
実家は鹿児島市内で電気工務店を営む。家業を継ごうと鹿児島工高に進学した。
体は細く、小さかったが足だけは速かった。同学年に宮崎・日向高の青木宣親(東京ヤクルト)がいた。
「一度だけ練習試合をやったんですが、普通の選手とは全然動きが違っていた。センスの塊みたいでした」
振り返って青木はそう語った。
ドラフト4位でソフトバンクの前身・福岡ダイエーに入団。ヒョロッとした川崎の姿を見た当時の監督・王貞治(現球団会長)は、「なんで、こんな細いのを獲ったんだ」と首をかしげたという。
「入った当時は体重が63キロ。打球は飛ばないし、練習にもついていけない。オヤジに電話して“1年でクビになるよ”と言いました」
だが彼には、隠れた才能があった。あえて名づけるなら“野球愛”。野球のことなら何時間考え続けても、何時間練習しても飽きることがないのだ。
「僕がラッキーだったのは野球以外に趣味がなかったこと。鹿児島から福岡の都会にやってきてもやることが見つからない。パチンコもやりませんから。だから、時間があるといつも野球で遊んでいた。すると、できないことがちょっとずつできるようになってきた。コーチからは“オマエはヘタクソだし、上達のスピードは遅いけど時間だけは平等だ”と教わりました。人が寝ている時、ご飯を食べている時に同じことをやっていても勝てるわけありませんよ」
当時の川崎を知る定岡智秋(現四国・九州アイランドリーグ高知ファイティングドッグス監督)は語る。
「川崎はなぜ成功したのか。それは基本を忠実に身につけ、一歩一歩ステップアップしていったからです。教えたことは自分の身になるまで反復練習し、モノにしました。
どんなに素質があっても伸び悩む人間はたいてい1度教えたことを忘れ、また同じ失敗を繰り返す。しかし彼は失敗を糧にした。その学習能力の高さ、単調な基本練習をいとわない我慢強さが今の川をつくったのです」
イチローを師と仰ぐ。中学1年の時、日本新記録のシーズン210安打を放った。川崎少年の目もイチローに釘付けになった。
「イチローさんが現れるまでは清原(和博)さんのような体の大きな人じゃないとプロ野球選手にはなれないと思っていた。ところがイチローさんはそうじゃない。体の小さかった僕に“オレにもできるかもしれない”と思わせてくれたんです」
鹿児島でオリックスの試合があると背番号51のTシャツを着て必ず観に行った。さっそうとプレーするイチローの姿に自らの将来を重ね合わせた。
イチロー同様、「51」の背番号が欲しかった。しかし、入団時に与えられたのはひとつ数の多い52。「あぁ、52も悪くないな」。これも運命だと思った。イチローを超えろということなのか……。
毎年、オフはイチローと一緒にトレーニングを行う。
「キャッチボールしても遠投してもイチローさんはスゴイ。グーンと伸びてきますもん。あんな球筋、見たことないですね」
そして続けた。
「“負けるか、イチロー!”と言って投げているうちに僕の肩も強くなってきた。これもイチローさんのおかげかな」
永遠の野球少年。比喩ではなく目がキラキラと輝いている。
「一生懸命やっているのに、まだまだヘタクソ。でも最近、野球が楽しくて仕方ない。今が一番ヤバイかもしれませんね」
人生、何が幸せといって、天職と巡りあうことに勝るものはあるまい。
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