「赤ヘルブームの火付け役は僕ですよ」。苦笑を浮かべて、そう語るのは近鉄などで活躍した太田幸司。「広島はあれですっかり勢いに乗っちゃったんだから……」
太田と言えば青森・三沢高のエースとして愛媛・松山商を相手に延長18回、そして翌日の再試合をひとりで投げ切った1969年夏の甲子園決勝が語り草だが、こちらは40年前の話。セ・リーグでは広島が球団創立26年目にして初優勝を果たした。
その年、つまり75年のオールスターゲーム第1戦。舞台は甲子園球場。全パの先発・太田は早くも初回、全セの3番・山本浩二にストレートをレフトポール際に運ばれる。6番の衣笠祥雄にもレフトスタンドに叩き込まれた。この回4失点。赤ヘルの両雄は次の打席でも代わった山田久志に一発を見舞った。
「赤は戦いの色。今季は闘争心を前面に出す」。新監督ジョー・ルーツの指示により、カープはこの年から帽子の色を紺から赤に変えた。そのお披露目となったのが球宴だった。
衣笠は語ったものだ。「当時のカープは毎年Bクラスのローカル球団。そのチームの選手たちが連続してホームランを放ち、三塁ベースコーチだった長嶋茂雄さんの祝福を受け、ハイタッチをしている。まるで夢心地でしたよ」
期せずして「赤ヘルブームの火付け役」となってしまった太田だが、「不思議なことに悔しい思い出は全くない」と言う。これには少々、説明が必要だろう。言わずと知れた甲子園の初代アイドル。「青森県 太田幸司様」でファンレターが届いた。プロ入り後は「プリンス」と呼ばれた太田は球宴が近づくにつれ憂鬱な気分に襲われた。「ファン投票の中間発表にちらりと目をやると、まだ1位。“早く逆転してくれ”と本気で思ったものです。2位との差が開いていたりすると、もうショックでショックで……」
大した実績もないのにファン投票で球宴に選ばれ、座る全パのベンチは太田にとって針のムシロだった。前年、初めて10勝を挙げた太田は、この年、キャリアハイの12勝をマークする。得票数にやっと実力が追いつき、前年に続き最多得票で選出された。「75年は一人前として認められての出場。だから打たれても恥ずかしくはなかった」。脱アイドルの夏。赤ヘル旋風に隠れた、もうひとつの球宴ドラマである。
<この原稿は15年7月8日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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