和田は1997年、社会人の神戸製鋼からドラフト4位でキャッチャーとして西武に入団した。主戦キャッチャーの伊東勤に加齢による衰えが見られ、球団は「伊東の後釜に」と考えていた。東北福祉大時代は強肩強打のキャッチャーとして鳴らし、4年時には日本代表にも選ばれている。加えて足も速かった。
 しかし、キャッチャーというポジションは年季がモノを言う。西武の黄金期を支えてきた伊東の壁は厚かった。98年にはオリックスからFAで中嶋聡も入ってきた。
(写真:試合前の練習では落合監督のアドバイスを受けるシーンも)
 和田の回想。
「(伊東さんの後継者という)そのつもりで西武に入ったんですが、キャッチャーは本当に難しいポジションでした。スローイングにしてもブロッキングにしても配球にしても……。加えて目配り、気配り。プロのレベルの違いをまざまざと見せつけられました」

 開幕スタメンのチャンスが回ってきたのは、プロ入り5年目の2001年のシーズンだった。監督の東尾修(当時)は松坂大輔(現レッドソックス)の女房役に和田を指名した。「新世紀バッテリー」と期待されていた。

 しかし――。開幕前、和田は高熱を発してしまうのである。振り返って東尾は語る。
「緊張したんでしょうね。熱を出して、開幕出場さえ危ぶまれた。そんなこともあって確か次の日は試合に出していないはずです。
 キャッチャーというポジションで生活しようと思うならアクが強くなければならない。言い方は悪いけど、“人をだましてナンボ”という仕事なんですから。
 ところが和田はプレッシャーを感じて熱を出してしまった。マジメなのはいいんだけど、この性格で相手の意表を突くリードができるだろうか……。そう考えると、ちょっとキャッチャーとしてやっていくのはしんどいんじゃないかと。だからこのシーズンは外野手としても使っているはずですよ」

 そのオフ、東尾が辞任し、守備走塁・作戦コーチを務めていた伊原春樹(現巨人ヘッドコーチ)が監督に昇格した。就任するなり和田に向かって伊原は言った。
「もうキャッチャーミットはいらないからな」
 キャッチャー失格通告である。口に出せないほどのショックを受けた。
「野球を始めてから、ずっとキャッチャー一筋。それが“もうミットはいらないから”ですから。悩む時間すら与えられなかった。命令ですから、こちらは“はい!”と言うしかなかった……」

 しかし人生、何が幸いするかわからない。血も涙もないと感じられた“人事異動”がバットマンとしての才能を開花させることになろうとは……。
「どのボールでもバットに当てられる。こりゃいいバッターだ」
 和田の素質に最初に惚れこんだのは入団当時の打撃コーチ土井正博である。年々、進化する打撃を土井はこう分析する。
「バッティングには二つの型があります。ひとつは両腕を伸ばして来たボールを前で押し込む打法。この時、両腕と体でつくる形は大きな三角形になっている。もうひとつは後ろでボールを引きつけて打つ方法。腕はコンパクトにたたまれているので、この時の形は小さな三角形になっている。
 この両方ができたのが長嶋茂雄さん、イチロー、そしてベンちゃん。翻って清原和博は前の大きな三角形でしか打てなかった」

 キャッチャーミットを捨て正式に外野手に転向した02年、和田は初めて規定打席数に達し、打率3割1分9厘、33本塁打、81打点と好成績を残す。
 現時点(6月15日)での通算打率(4000打数以上)3割1分6厘は右バッターとしてはブーマー・ウェルズ(元阪急)に次いで歴代2位。落合博満の3割1分1厘をも凌いでいる。このひとつのデータからもいかに和田が破格の強打者であるかということが確認できよう。

 人生には3度、転機が訪れるという。和田にとって最初がキャッチャーから外野手への転向なら、2度目はFA権を行使しての中日への移籍だった。県立岐阜商高出身の和田にとって中日には子供の頃から馴染みがあった。

 ここで和田は運命的な出会いを果たす。三冠王3度、「史上最強のスラッガー」との呼び声高い落合だ。
「オマエ、バッティングを変えた方がいいんじゃないか」
 沖縄・北谷でのスプリング・トレーニング(春季キャンプ)。顔を合わせるなり落合は言った。続けて、こうも言った。
「オマエのバッティングは無駄が多いんだよ」
(写真:落合監督によると、ボールを投げる時とバットを振る時の右ヒジの使い方は全く同じだという)

 スイングの手本を示しながらのマンツーマン・トレーニング。見るもの、聞くものすべてが和田には新鮮だった。
「まずオープンスタンスをスクエアに近いスタンスに変えました。開いていた足を元に戻そうとすると体重移動が大きくなる。その時間が無駄だと。
 狙い球については、とにかく真っすぐを打ちにいけと。変化球はキャッチャーミットにおさまるまでに時間がかかる。自分の中で時間がつくれるから対応できるんだと。しかし真っすぐはそうはいかない。
 西武時代にバッティングの基礎については身に付けていたと思っていたんですが、落合さんには体の使い方、仕組みを含め、もっと踏み込んだ部分について教えてもらった。
 そのことが去年あたりから、やっとわかるようになった。言葉にするのは難しいんですが、楽にボールが飛ぶようになったんです。“あっ! こんな感じても飛ぶんだ”って。今までとは違った感覚ですね」

 構えはスクエアからオープン、そしてまたスクエアへ。バットも昨季より34インチ(約86.3cm)から34.5インチ(約87.6cm)に替え、目方も20g重くした。
 この柔軟な思考法の陰には落合の影響が色濃く反映されている。自著『なんと言われようとオレ流さ』(講談社)で落合はこう述べている。
<他人はオレのことをこう言う。「アイツはフォームがあってないようなもんだ」とか、逆に「フォームにいちばんこだわっている」とかね。
 でもオレにはそんなこだわりはまったくない。
 ひとつの形を固守することも大事だろう。でも、その都度、変化することも大事だと思う。
 人間は毎日生きている動物だ。当然、考え方も体調も毎日変わる。それなら野球の構えや打ち方も変わって当たり前。そのへんがわかっただけ、ちょっと打撃開眼と言ってもいい。
 たかが野球、されど野球。
 ほんとうにたかが野球さ。メシ食うための一つの手段だもの。でも、他人よりいいものを食おうと思えば、それだけ多く考えなければいかんわけだ>

 中日に移籍した当初、和田はスランプに喘ぎ、自らのバッティング技術に限界を感じ始めていた。落合との出会いがなければ、今頃は引退へのカウントダウンを聞きながら打席に向かっていたかもしれない。

「違うランクの野球があることを教えてくれた人」
 和田は落合をそのように評する。目下、打率3割6分7厘で首位打者。38歳を迎えた今、まだ成長を続けている。いったい、何が大器晩成の源泉になっているのか。

「僕はキャッチャーを失格になったり、2軍に年に5回も6回も落とされたり、いろいろな経験をしてきた。挫折もいっぱい味わってきた。決して順風満帆な野球人生ではありませんでした。
 でも、振り返って思うんです。遠回りしてきたことが今に生きているのかなって。人生なんて、時間が経てば“まぁ、ああいうこともあったんだな”くらいで済むじゃないですか」
 野球に打率があるように、人生にもバランスシートがある。

 3度目の転機――。それは必ずやってくる。その時、ベテランはどう考え、いかに振る舞うのか。もうしばらく、この“異能のスラッガー”の行方を見つめていたい。

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<この原稿は2010年7月3日号『週刊現代』に掲載されたものです>