2008年春、高校時代に目標としていた全国大会出場を叶えた泉武志は、日本一を目指し、日本体育大学に進学した。日体大といえば、レスリングにおいても1964年東京五輪男子グレコローマン・フライ級金の花原勉、76年モントリオール五輪男子フリースタイル52キロ級金の高田裕司ら数々のメダリスト、オリンピアンを輩出した名門中の名門である。しかし、泉に待っていたのは順風満帆な競技生活ではなかった。
 悲願の日本一。突然の引退

 泉は大学からグレコローマンスタイルを選んだ。レスリングにはフリー、グレコローマンと2つのスタイルが存在する。前者がその名の通り攻撃に制限がないのに対し、後者は腰から上のみの攻防となり、足を取るなど腰から下への攻撃は禁じられている。高校時代はグレコローマンの大会も少なく、明確にスタイルを分けていなかった中で、泉がグレコローマンに決めたのには、高校時代の恩師・栗本秀樹からのアドバイスがあった。

「選手になりたいならフリースタイル、日本一になりたいならグレコをやれ」

 泉が目指していたのは、日本一である。彼は師の助言に従った。栗本は「泉は細かい動きができないので、フリースタイルでは勝ちにくい。グレコの方はだいたい大学で始める選手が多いので、勝つんだったらグレコで体力生かした方がいいかなと思ったんです」と、その理由を語った。

 恩師の期待通り、東日本学生春季新人選手権では3位入賞を果たした。だが、1年の秋に部員の不祥事が発覚し、部には1年間の謹慎処分が科された。自らに罪はないにも関わらず大会に出られない日々、泉は「レスリングに対する意欲がなかった」と腐りかけていた。

 大学卒業まで残り1年となった頃、もう一度気持ちを奮い立たせた。「あと1年思いっきりやろう。やってもやらなくても、時間は経っていくんだから、頑張ってみようと思ったんです」。さらに66キロ級でなかなか芽が出なかった泉は「この階級では勝てない」と60キロ級への転向を決意する。そして、この決断が吉と出た。全日本学生選手権では初戦の2回戦から3回戦、準々決勝、準決勝と勝ち進み、決勝まで辿り着いた。

 決勝の相手は拓殖大の矢野慎也。八幡浜工高時代の同期である。本来は階級が違ったため、直接ライバル関係にあったわけではないが、泉は「高校の時はずっとやられていたので、ここで勝たないと。優勝と2位では全然違う」と初の日本一まで、あと少しと気合十分だった。

 2人を高校時代に指導した栗本が「高校の時は矢野の方が全然強かった」というように、矢野は09年には世界ジュニア選手権代表にも選ばれている実力者だ。前評判は矢野の方が上だった。試合は矢野が第1ピリオドを先取。第2ピリオドは泉が取ったものの、トータルスコアで第3ピリオドが同点のままなら、軍配は矢野に上がる。

 刻一刻と経過していく時間。追いかける泉にはあっという間のようで、逃げる矢野からすれば長く感じたことだろう。そして残り約10秒――。このままでは負けてしまう泉はパーテレポジションの大チャンスを得る。必死にへばりつこうとする相手を抱え上げ、マットへ放り投げた。泉にポイントが加算され、土壇場での逆転勝利を挙げた。最後まで諦めない泉らしいガッツ溢れる姿勢が学生日本一を掴み取った。

 ついに掴んだ日本一という栄光だが、その後は燃え尽きたかのように下降線をたどっていく。国民体育大会で準優勝、全日本学生グレコローマン選手権では3位とひとつずつ下げていく順位につられるように、泉の競技へのモチベーションも徐々にすり減っていっていたのだ。当初は出場予定だった年末の全日本選手権の出場をキャンセルした。実業団から誘いも来ておらず「この先、続けてもダメだなと思っていました」とレスリングへの熱は冷めていた。

 遠回りではなかった言い切れる“帰り道”

「笑わせることは、自分もすごく楽しい。はしゃぎながらも、自分でいられる」
 この頃の泉は、人を倒すことよりも、笑わすことに気持ちが傾いていた。彼はお笑い芸人に憧れた。だが親からは、これまでやってきたレスリングをやめること、決して安定しているとは言えない職業であることを理由に反対された。

 幼馴染で“兄”のような慕う竹口隼人の親戚には、テレビ局に顔が利く業界関係者がいた。11年春、その伝手を通じて、泉は東京のテレビ番組制作会社で勤めることになった。バラエティ番組のADをやりながら芸能界へと足を踏み入れた。新たな道を歩み始めた泉だった。

 その年の夏、泉は竹口と電話していた。ちょうどロンドン五輪レスリングの試合中継がテレビでは流れていた。ルールに詳しくない竹口は何気なく、泉に即席で解説を務めた。饒舌に説明する泉。時はあっという間に過ぎて行った。

 すると泉は電話越しの竹口にこう言ったという。「ウズウズしてきた」。テレビ局で働く毎日はどこか刺激が足りなかった。“自分の居場所はここではないのでは?”。そう悩み始めていた頃でもあった。きっかけは些細なことだったかもしれない。だが、泉の想いは加速度を上げていく。

 迷った末に、泉は現役復帰を決断する。12月に正式に会社を辞め、親戚を紹介してくれた竹口に報告をした。
「会社辞めました。これからリオデジャネイロオリンピックを目指します」
「オマエの自由やからいいわ。明日から何するん?」
「とりあえず休みます」
「そんな暇あるなら走って帰れ!」

 竹口は激高した。
「オマエ、ブランクあるのに勝てるわけないやろ。遊んだり、今までできんかったことをしたいと思っているかもしれんけど、そういう気持ちでレスリング復帰して、リオオリンピックに行けるなんて思っていたら、出場できんから!」
 泉が0歳の頃からの付き合いである。竹口にとっても“弟”のような存在の泉の思いは見透かしていた。それゆえに“兄”は“弟”を思い切り叱った。

 11年の冬、東京の三軒茶屋から愛媛県八幡浜市を走って目指す旅路がスタートした。竹口からの条件は以下のものだった。
「夜8時以降は走ってはいけない」
「Facebookを毎日アップする」
「Facebookの友達を増やし、応援してくれる人たちを増やせ」

 リオへの助走路は、数百キロの長い道のり。いろいろな人や動物と出会った。旅先で食事をご馳走になることもあった。赤の他人である泉に対して優しくしてくれる。感謝の思いを胸に走った。12月6日から29日まで、いろいろな思いとともに駆け抜けた。
「誰もができない経験をできました。それまでひとりになる時間が全然少なかったので、いろいろと考えることができました。自分の未来設計を描いていましたし、オリンピックに絶対出たいと一層強く思わせてくれた」

 テレビ番組制作会社で勤めたこと、23日間かけて、東京都から愛媛県までを走破したこと。泉にとって、そのどちらもが無駄足ではなかったと胸を張って言い切れる。必要なプロセスだったことは、この先、自らの足で証明するのだった。

(最終回につづく)
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泉武志(いずみ・たけし)プロフィール>
1989年4月6日、愛媛県八幡浜市生まれ。八幡浜工高校2年からレスリングを始める。3年時には全国大会に出場するも個人では目立った成績は残せなかった。名門・日本体育大へと進むと、4年時には全日本学生選手権(インカレ)グレコローマンスタイル60キロ級優勝。インカレ王者に輝くと、国民体育大会成年男子同級で準優勝などの好成績を挙げた。大学卒業後は現役を引退。TV番組の制作会社に勤めたものの、12年のロンドン五輪に刺激を受け、復帰を決意した。翌年の全日本社会人選手権グレコローマンスタイル66キロ級で優勝すると、NYACホリデーオープン(米国)も制した。14年は全日本社会人選手権と国体を制すと全日本選手権初制覇を成し遂げた。今年はアジア選手権に出場。全日本選抜選手権では初戦負けを喫したが、プレーオフで勝利を収め、自身初の世界選手権切符を手にした。一宮グループ所属。174センチ。

(文・写真/杉浦泰介)




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