2012年冬、泉武志はオリンピックという夢を再び追いかける決意をした。背中を押す者もいれば、反対する者もいた。それでも彼は迷わなかった。東京から故郷の愛媛まで走って帰る中で、夢への想いは一層強くなった。帰郷した泉は母校・八幡浜工高を訪ねた。約9カ月のブランクを埋めるために選んだ場所は、競技を始めた原点だった。
 何度でも立ち上がる不屈の精神

 高校時代の恩師である栗本秀樹は「会社を辞めるな」とアドバイスした1人だったが、「今から日体大で練習してもついていけんから、ウチで3月過ぎまで練習して、それから行け」と泉を受け入れてくれた。とはいえ、1年近いブランクを埋めることは容易いことではない。泉自身もトレーニングを積みながら、落ちた体力に愕然とした。「今まで走るのは速かったんですが、一番遅い重量級のやつと同じスピードだった。“ここまで落ちたか”と思いましたね。力も全然ないし、“やばいな”と」。スパーリングをすれば、高校生からもポイントを取られた。出場した国民体育大会も1回戦負けを喫した。

 それでも泉の心は折れなかった。「負けても負けても、アイツは立ち上がるんですよね」と、栗本は教え子のガッツを称えた。泉は3カ月間の鍛錬を経て、肉体を戻した。始めたばかりの頃は一番遅かったスピードも、トップについていけるまでになった。母校で鍛え直し、再び日体大へと拠点を移した。アルバイトで生計を立てながら、日々研鑽を積んだ。その努力が実を結ぶのは、半年が過ぎた頃だった。

 7月の全日本社会人選手権では66キロ級で優勝した。初の国際大会となった米国でのNYACホリデーオープンも制すると、翌年の全日本社会人選手権では75キロ級で頂点に立った。実質2連覇を達成し、泉は更に勢いづいた。10月に大学4年時には準優勝止まりだった国体で初優勝を果たした。

 背水の陣で掴んだ日本一

 そして迎えた12月の全日本選手権。アルバイトで生計を立てている泉は、いわばフリーターのような状態だった。この生活もそう長くは続けられない。リオデジャネイロ五輪を目指す泉にとって、第一次選考会で負けることはあってはならないことだった。それだけのトレーニングを積んできた自負もある。「これだけ練習をして結果を得られなかったら、これ以上やっても無駄なのかなと思った」と覚悟を決めて臨んでいた。

 泉は決勝までは1点も与えず、一気に勝ち上がった。決勝の対戦相手は前年度の覇者・音泉秀幸(ALSOK)。直近の戦いでは6月の全日本選抜選手権で敗れており、昨年の準決勝でもテクニカルフォール負けを喫していた。日体大時代からの1学年後輩だが、この年の世界選手権で8位入賞を果たすなど泉にとっては、格上である。泉同様にスタンドで積極的に攻めるタイプで、苦手意識も少なからずあった。

 第1ピリオドは互いにポイントを奪えぬまま、時間だけが過ぎていった。第2ピリオドは泉が積極的に攻める。28秒、回り込んで相手のスキを突くと、そのまま場外へと押し出した。泉は1ポイントを奪い、先制に成功した。

 しかし、リードしたのもつかの間、1分を過ぎたところで反則をとられ同点に追いつかれる。さらにうつ伏せ状態からのパーテレポジションを指示される。ここで音泉は得意の俵返しを仕掛け、大量得点を狙いに行った。踏ん張る泉を力づくで持ち上げる音泉。投げられそうになりながらも、泉は足をついて耐えた。「立てると思った。立つしかないと。そこでうまいこと抜けられました」。その直後だった。バランスを崩していた音泉を一気に場外へと押し切った。相手が大技を掛けるそのスキを狙っていたわけではない。身体が自然と反応した。

 残り1分40秒。泉は音泉の反撃を捌き切った。試合終了のホイッスルが鳴ると、雄叫びを上げる。2−1で競り勝ち、3度目の全日本でついに日本一に立った。背水の陣で臨んだ全日本を制覇したことにより、リオへの道は拓けたのだった。

 国際舞台を経験し、昂る想い

 全日本での優勝により、泉はアジア選手権への出場権を得た。そして更なる朗報も運んでくれた。この実績を買われ、地元愛媛県に拠点を置く一宮グループとスポンサー契約を結ぶことができた。練習時間や余暇を削って働かなくてはならなかったフリーター時代とは打って変わって、競技に100%集中できる環境が与えられたのだ。

 アジア選手権では「流れが読めなかった。どういうふうなものなのかもわからず、自分の力もうまく発揮できませんでした」と初戦敗退の憂き目に遭ったが、初の大きな国際大会を経験できた。6月の世界選手権の選考会を兼ねた全日本選抜では、プレーオフを制して米国ラスベガス行きの切符を手にした。

 今月に行われた世界選手権は2回戦敗退――。リオデジャネイロ五輪の選考会を兼ねており、5位以内で枠を獲得。表彰台に上がれば、五輪代表に内定できた。だが結果として、そのどちらも叶わなかった。

 五輪への切符は手にできなかったものの、初の世界選手権出場で得たものはある。「“この舞台に立ってやりたい”という気持ちが更に湧いてきて、情熱やパワーをもらいましたね」。同じ階級の世界のライバルから見て盗めるものもあった。「自分と似たスタイルの選手もいて、勉強になりましたね。場外での対処の仕方を真似すれば、自分にも大きな武器になる」

 泉は今後の課題に「技が切れていない。押し出しばかり。技で取りにいく練習をしないと勝てないと感じました」と語る。グラウンドの守りについては、ある程度の手応えを掴んだという。その一方でグラウンドの攻めには、確実に点をとれるほどの自信はまだない。 

 想いはリオへと一直線

 ラスベガス経由リオデジャネイロ行きの道は閉ざされた。だが泉の視線は全くブレていない。リオへの道は幾通りも残されている。12月の全日本で再び王者になれば、来年3月のアジア大陸予選(カザフスタン・アスタナ)、4月の世界予選(モンゴル・ウランバートル)、5月の世界最終予選(トルコ・イスタンブール)のうち2つを選択できる権利が与えられる。アジア大陸予選と世界最終予選は各階級上位2人、世界予選は上位3人までが出場枠を獲得。全日本王者が出場枠を獲得すれば、五輪代表に内定する。

 日体大で泉を指導する松本慎吾は、現役時代に五輪選考レースを何度も経験している。「切符を勝ち取るために必要なものは?」と問うと、こう答えた。
「それまでの準備も必要ですが、大陸予選、世界予選と段々、状況も追い込まれていく。道が狭まっていく中で、最後の最後まで“絶対にオリンピックに行きたいんだ”という強い気持ちを持っていけるか。気持ちが折れそうな時もあると思うんですよ。それでも食らいついていくという、最終的には自分の気持ちだと思います」

 高校2年からスタートさせた競技生活。紆余曲折、遠回りもしてきたかもしれない。高校時代の恩師が「思い立ったらやる男です。好きなことに対しては本当に一生懸命やる」という泉。母・愛子は「最後に必ず結果を残す子でした」と嬉しそうに振り返る。小学生の頃のバスケットボールのチームでは、試合終了間際にゴールを決めたこともあった。テニスでは長いラリーを制し、記憶に残る試合をした。レスリングでも大学の最終学年で学生日本一。背水の陣で臨んだ全日本でも優勝した。泥臭く粘り強く戦うのが、泉のファイトスタイルだ。

 泉武志はマットの上で、これまで支えてくれた人たちへの感謝の思いを胸に戦う。「世界で活躍し、男子もやれるんだと証明したい」。その舞台は来年のリオにこそ用意されている。夢追い人は、誰かに笑われようが、その歩みを止めるつもりはない。

(おわり)
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泉武志(いずみ・たけし)プロフィール>
1989年4月6日、愛媛県八幡浜市生まれ。八幡浜工高校2年からレスリングを始める。3年時には全国大会に出場するも個人では目立った成績は残せなかった。名門・日本体育大へと進むと、4年時には全日本学生選手権(インカレ)グレコローマンスタイル60キロ級優勝。インカレ王者に輝くと、国民体育大会成年男子同級で準優勝などの好成績を挙げた。大学卒業後は現役を引退。TV番組の制作会社に勤めたものの、12年のロンドン五輪に刺激を受け、復帰を決意した。翌年の全日本社会人選手権グレコローマンスタイル66キロ級で優勝すると、NYACホリデーオープン(米国)も制した。14年は全日本社会人選手権と国体を制すと全日本選手権初制覇を成し遂げた。今年はアジア選手権に出場。全日本選抜選手権では初戦負けを喫したが、プレーオフで勝利を収め、自身初の世界選手権切符を手にした。一宮グループ所属。174センチ。

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(文・写真/杉浦泰介)




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