
かつて“水の女王”の名を欲しいままにした女子スイマー・成田真由美。アトランタ、シドニー、アテネ、北京と4大会連続でパラリンピックに出場し、計20個のメダル(金15、銀3、銅2)を獲得した。だが、決して順風満帆だったわけではない。パラリンピックはいつも度々襲いかかる病魔との闘いを乗り越えてのものだった。さらに北京大会では突然のクラス変更を余儀なくされた。それでも彼女は決して下を向かない。その精神的強さはどこからくるのか。二宮清純がロングインタビューを敢行した。
二宮: 成田さんはトップスイマーとして長年、世界の舞台で活躍してきました。パラリンピックには1996年のアトランタ大会から出場しているわけですから、もう大ベテランです。
成田: アトランタから数えると北京は12年になりますが、あっという間でした。私の場合はパラリンピックとパラリンピックの間の4年間、一度も満足に練習ができたことがないんです。必ず4年間の中で、入院・手術があるので、いつもバタバタなんですよ。2008年の北京大会の時も、ギリギリまで入院していましたから......。それでもいつも本番には間に合っていた。今考えると、本当に不思議です。
二宮: 北京大会では突然、クラスが変更になりました。
成田: 自由形と背泳ぎは前年の12月に既にクラスが変更になっていたので、北京でのメダルは諦めていました。だから個人メドレーにかけていたんです。ところが、開幕直前、再度のクラス分けで個人メドレーのクラスまで変更になった。すぐにJPC(日本パラリンピック委員会)が抗議してくれたのですが、IPC(国際パラリンピック委員会)の判断は覆りませんでした。
二宮: 成田さんはそれまでのクラスよりも一つ障害の軽いクラスに入りました。
成田: はい。そうすると、個人メドレーではバタフライを泳がなければならないんです。私は腹筋と背筋が使えないので、バタフライは泳げない。結局、個人メドレーは棄権せざるを得ませんでした。
二宮: 突然のクラス変更で、対応するのも大変でしたでしょうね。
成田: そうなんです。だから、50メートルと100メートルの自由形と、50メートル背泳ぎの3種目に出場したのですが、これまでより障害の軽いクラスでしたから、飛び込みができる選手もいれば、キックやクイックターンができる選手もいる。そんな中ではメダルは到底無理だということはわかり切っていました。
二宮: 一番、悔しいと思ったのは?
成田: 私がこれまで残してきた3大会の記録がすべて抹消されて、目の前で自分よりも遅い選手の記録が世界記録として公認されたんです。その時には、正直「自分にとって、これまでのパラリンピックっていったい何だったんだろう......」という気持ちになりましたね。
二宮: それでも3種目、最後まで泳ぎ切りました。気持ちを切り替えるのは大変だったのでは?
成田: 私は女子競泳のキャプテンでしたから、みんなを引っ張っていく立場でした。だから、悔しい気持ちを胸にしまい込んで、翌日には気持ちを切り替えましたね。コーチは「棄権してもいいんだよ」と言ってくれたのですが、日本代表として北京まで来ているわけですから、メダルが無理でも精一杯泳ごうと思ったんです。
二宮: 記録は抹消されましたが、「成田真由美」というスイマーの記憶を抹消されることは決してありません。
成田: ありがとうございます。私にとっても水泳が好きだという気持ちにかわりはありません。自分にはまだのびしろはあると思っていますので、自己記録更新を目指していきたいですね。
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