二宮: ロサンゼルス五輪から23年が経った今、教え子の田淵幸一さんと山本浩二さんが日本代表のコーチに就任しました。
松永: 監督の星野仙一くんもちょうどあの時代の明治大学のピッチャーですからね。私にとっては彼も教え子みたいなもんですよ。
これまで野球界では、指導者は死ぬまで頑張るというのが美学とされてきました。しかし、ようやくここにきて彼らの年代まで下りてきたな、と喜んでいます。
<提供:アサヒビール株式会社>二宮: 世代交代をもっと早くしなければいけなかったと。
松永: えぇ。国際大会では腕を組んでじっと見ているような監督じゃ、ダメなんですよ。先頭に立って、ガンガンやらせないと絶対に勝てない。それこそ星野くんくらいカッカ燃えるくらいの元気がないとね。
二宮: ところで松永さんが監督だった頃の法政大学は “黄金時代”と呼ばれていました。田淵さん、浩二さん、そして富田勝さんが“三羽ガラス”と言われ、その後プロでも活躍しました。
松永: 彼らも他の選手と同様にノックでみっちり鍛えました。当時は2時間目の授業が終わって12時になると、13時からの練習に備えて1年生がグラウンドの整備をするんです。午前中の授業で荒れたグラウンドをならすわけですが、まずサードを先にならさせました。練習前の12時から13時は富田の個人ノックの時間だったんです。
二宮: なぜ、練習前に個人ノックをされたんですか?
松永: 富田は高校時代はセカンドをやっていたのですが、彼の性格を見て僕はサードにコンバートしたんです。そのために特訓が必要だった。じゃあ、それをなぜ練習前にしたかというと、私は練習が始まる時には既にグラウンドが殺気だっていないと嫌なんです。だから、富田に個人ノックをして、練習が始まる頃には、もうグラウンドはピリッと引き締まっている状態にしたんです。
二宮: 浩二さんは入学当初はピッチャーでしたよね。
松永: そうです。大学生にもなると、人生の岐路に立たされます。卒業後も野球を続けるのか、それとも野球と縁を切るのか。続けるとしてもプロか社会人か、と。そういう意味で預かる方としては、非常に神経を遣います。この選手にはどういう起用の仕方がいいのかと頭を悩ますんです。山本の将来を考えた時、あの体型でピッチャーでは無理だろうと思いました。それで2年から外野に移しました。
二宮: 早いうちに野手にコンバートしたおかげで、結果的に打者で大成したんですね。
松永: 広島の廿日市高校(現・湯来南)のエースで4番だった山本を紹介してくれたのが鶴岡一人さんでした。それで「ピッチャーだけのワンマンチームだから、もしダメなようならバッターに」という情報が入学前から入っていたんです。ですから、あらかじめそういうことを頭に入れながら彼を見ていました。
二宮: 田淵さんはどうたったんですか?
松永: 田淵は1年の時からキャッチャーで試合に出場させました。打順は8番。それから段々と上がっていったんです。最終的に田淵が4番を任せられるようにまで成長しました。そこで、彼の前後を打てるバッターということで、富田を3番、山本を5番にしたんです。
二宮: 田淵さんは最初から長距離砲として天才的なものがあったんでしょうか?
松永: ありましたね。リストが柔らかいんですよ。田淵が法政一高時代、僕が監督だった時期があったんです。補欠の選手は全員、バッティングキャッチャーをやらされるのですが、当時外野手だったにもかかわらず、田淵は低めのボールをまるでキャッチャーのようにうまくさばいていた。それを見て「この子をキャッチャーにしてみよう」と。でも、182センチもある選手をキャッチャーにするなんて、あの頃はあまり考えられませんでしたけどね。
二宮: 当時はキャッチャーというと、ズングリムックリっていうイメージがありましたからね(笑)。
松永: そうそう(笑)。
学生野球、人気のワケ
二宮: でも、あの頃の法政は本当に強かった。田淵さんらの1年後輩には前人未到のリーグ戦48勝を記録した山中正竹さんもいましたからね。その記録は未だに破られていません。
松永: 早稲田の斎藤佑樹の登場で、山中に挑戦するピッチャーがようやく出てきたかな、という感じですね。でも、考えてみたら4年間で8シーズンしかないわけでしょ。1シーズンに6勝しないといけない計算ですからね。難しいですよ。
実は当時、44勝するまで山中が何勝したかなんて、全く知らなかったんです。今みたいに20勝や30勝したからといって、新聞の記事になるような時代じゃないですからね。山中が44勝目を挙げた時に、約20年前に早稲田の末吉俊信さんが44勝していて、その記録に並んだっていう記事をちらっと読んだんですよ。その時初めて「こんなに彼は勝っているのか」と知ったわけです。当時はピッチャーが打たれて、本来なら負け試合になっていてもおかしくない試合でも、打線が爆発して勝ちにつなげたり、先発には勝敗がつかなかったりしたことが結構あったんです。とにかくあの頃は打線がよく打ちましたよ。
二宮: その頃の六大学野球はスケールが大きくておもしろかった。バントなんかほとんどしませんでしたよね。
松永: 当時は試合前からファンが入ってましたよ。早稲田の荒川尭や谷沢健一、それから法政の富田、田淵、山本らが一打席目からホームランを飛ばすのを期待して来てたんです。
二宮: 今は学生がほとんどを占めていますが、昔は一般の人たちまで観戦に来ていましたよね。
松永: そうそう。それからちょっと手前味噌になりますが、私の試合前のノックを見に来るファンもいたんです。監督を辞めてから言われたのですが、「松永さんのノックが見たくて行っていました」と。僕はいつもノックの最後にはレフトの芝生席に打球を飛ばすんです。選手に「今日もあそこに放り込んでくれよ」という気持ちを込めてね。そうすると、学生が喜んでボールをキャッチしてましたよ。いやあ、本当にいい時代だったねえ。
今、六大学や東都リーグを見に行っても、監督のノックの下手なことといったら……。当時は明治の島岡吉郎さんがノックするのをスタンドでみんな笑ってましたけどね。ただあの人はとにかく一生懸命だった。見ている人にはあの人の情熱が伝わってきていましたよ。今はそんな人は全くいなくなってしまった。これじゃ、学生野球は強くならないと思いますね。
(後編につづく)
松永怜一(まつなが・れいいち)プロフィール1931年、福岡県生まれ。八幡高、法政大では内野手として活躍。法政一高では監督として春夏一度ずつ甲子園に出場した。堀越高の監督を経て、65年に法大の監督に就任。“法政三羽ガラス”の異名をとった田淵幸一、山本浩二、富田勝を擁し、東京六大学野球で6度のリーグ優勝に導いた。71年より住友金属野球部監督に就任し、日本選手権で2度の優勝を果たす。84年にはロサンゼルス五輪野球日本代表監督に抜擢され、見事金メダルを獲得した。今年、長年の功績が称えられ、特別表彰として野球殿堂入りする。
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