二宮: このたびは野球殿堂入り、本当におめでとうございます。
松永: ありがとうございます。特別表彰ということでいただいたわけですが、まぁたまたま運がよかっただけですよ。
<提供:アサヒビール株式会社>二宮: そんなことはありません。松永さんといえば、1984年のロサンゼルス五輪での金メダルです。公開競技とはいえ、あの金メダルがあったからこそ、今日の日本代表があると言っても過言ではない。
松永: 確かに五輪野球にとって様々な効果はありましたよね。ロサンゼルス五輪では8日間で観客が40万人にものぼり、成功に終わった。そのおかげで2年後の86年に野球が五輪の正式種目になったわけですから。
二宮: 当時、大学と社会人でバラバラだったアマチュアを一つの代表チームとしてまとめるのは大変だったと思いますが。
松永: あの時は五輪までに20日間程しかなかったですからね。8月の4、5日くらいに集合して25日には日本を出発しなければならなかったんです。しかも集合して1日2日で学生がみんな日米野球に行ってしまった。残った社会人13人だけで猛練習をやりましたよ。
当時、私は52歳。体力的にもギリギリでしたから、「(監督として)これが最後の五輪だ」という思いで徹底的に選手たちを鍛えました。私は1970年代から社会人野球の指導者として世界と戦ってきましたが、もう何度も辛酸を舐めさせられた。その中で学んだのは、世界に対抗するには技術よりも最後は体力だということ。試合の終盤にいかに力を出せるか、それが勝敗を分けるポイントなんです。ですから、私は思い切って平均年齢22.5歳という若手主体のチームにしました。これが結果的には成功したと思っています。
二宮: 公開競技とはいえ初めてのオリンピックということで、松永さんも金メダルしか狙っていなかったと思いますが……。
松永: 私はこの大会は「広沢(克己)で始まって広沢で終わった」大会だと思ってるんですよ。国際大会で重要なのは平面的な攻撃と立体的な攻撃をうまくミックスすることなんです。もちろん、日本人の特性をいかす野球も大事ですけど、それだけでは勝つことはできません。
二宮: 機動力だけでなく、ここぞというときの一発も必要ということですね。
松永: 終盤で1、2点差だったら平面的な攻撃でもなんとかなるんですよ。ところがそれ以上の点差になると、ランナーをためて一発というものが必要になる。それができるのは長距離砲の広沢しかいないと思って、私は彼にかけたんです。
二宮: 当時の社会人には広沢のような長距離打者はいなかったのでしょうか?
松永: チームには荒井幸雄や熊野輝光がいましたけど、二人とも小さかったからね。それに、当時は都市対抗野球大会と時期が重なっていて、召集しても企業から断られたこともあった。非常に難しい条件での選出だったんです。
二宮: なるほど。それで選んだ20人の中では広沢が一番のキーパーソンになると期待されたんですね。
松永: そうです。それと、もう一つ国際大会で重要なのは、選手がこちらが計算している以上の力を出してくれるかどうかなんです。私はそれを“超能力”とよんでいますが、そうした力を出す選手がどれだけ出てくるかでメダルの色が変わってくる。ロサンゼルス五輪の時には、広沢をはじめ、荒井や熊野、ピッチャーの吉田幸夫らが、私が予想していた以上の力を出してくれた。にわか仕立てのチームで金メダルを獲得できたのは、完全に“超能力”のおかげなんです。
二宮: 決勝で対戦した米国チームにはウィル・クラークやマーク・マグワイアなど、後にメジャーリーグで大活躍するメンバーが揃っていました。
松永: その後の五輪を見ても、米国はあの時のメンバーが最強だったと言われていますよね。
二宮: しかも西海岸の野球のメッカともいえるドジャースタジアムで行われたということで、相当プレッシャーがあったのではないでしょうか?
松永: そうですね。やっぱり運がよかったんだと思いますよ。国際大会では運が2割くらい占めますから。
それと、大会前にやった練習が本番でかなりいきたことも大きかった。外国の選手というのは、前に進むことはうまいけど、逆に後ろに戻るという動きには弱いんです。日本の選手はその逆なんですけどね。だからそこを突こうとしたんです。例えば、ランナー2塁の場面で打者がバントの構えをしたら、つり球で2塁ランナーを刺す、そんなピックオフプレーの練習を徹底的にやったんです。そしたら韓国戦などで、まんまとそういう場面が出てきて、ピタリと当たった。
二宮: その外国人の選手の弱点というのは、松永さんがそれまでの国際経験で気付いていたことだったんですか?
松永: そうです。今はプロが五輪に出場する時代になったわけですが、そういうアマチュアが学んできたことをプロももっと謙虚に勉強してほしいですよね。
二宮: 全くその通りですね。
松永: それと私が大会を通して心がけていたのは、早めに投手交代をしようということでした。これもズバリ的中した。ある試合で吉田を下げた時なんかは、スタンドからブーイングが起こったんです。その時は「何でかな」と不思議だったんですけど、よく考えてみたら1点も取られていない投手を交代させたからなんですよ。それほど早めにスイッチしましたね。
二宮: 最初から継投でいくと決めていたんですか?
松永: はい。当時、投手の軸になったのは吉田、伊東昭光、宮本和知の3人。宮本はヒジを痛めていたんですが、それでも「投げたい」と言うので、「それじゃ、(痛み止めの)注射を打ってやりなさい」と。それから福井工大の学生だった伊藤敦規も頑張ってくれましたね。
二宮: ロサンゼルス五輪以降、松永さんほどの覚悟をもって金メダルを獲りに行った監督はいなかったように思います。
松永: そうですね。正直、私みたいな指導者はもう出てこないでしょうね。というのも、ノックバットを振り回して、自ら選手を鍛え抜くという指導者が、いなくなっていますから。
二宮: 私に言わせれば、今回の殿堂入りは遅すぎたくらいです。五輪野球で金メダルをもたらした唯一の監督なんですから、もっと前に選ばれていてもよかったと思います。
松永: 今回殿堂入りした一番の要因は、大学や社会人での日本一、そしてロサンゼルス五輪での世界一といった長年の実績でしょう。というのも、私みたいに監督として高校、大学、社会人とアマチュアの世界を一通り経験するなんてことはないでしょうからね。とにかく特例中の特例なんです、私は。自慢できることといったら、ノックバットを振って選手を鍛えること、これが私の持ち味ですから。
(中編につづく)
松永怜一(まつなが・れいいち)プロフィール1931年、福岡県生まれ。八幡高、法政大では内野手として活躍。法政一高では監督として春夏一度ずつ甲子園に出場した。堀越高の監督を経て、65年に法大の監督に就任。“法政三羽ガラス”の異名をとった田淵幸一、山本浩二、富田勝を擁し、東京六大学野球で6度のリーグ優勝に導いた。71年より住友金属野球部監督に就任し、日本選手権で2度の優勝を果たす。84年にはロサンゼルス五輪野球日本代表監督に抜擢され、見事金メダルを獲得した。今年、長年の功績が称えられ、特別表彰として野球殿堂入りする。
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