「アメリカに行っても自分の野球は変わらないんですよ。日本、特にヤクルトで教えてもらった野球をやっていますから」
 岩村明憲がメジャーリーガーだった頃、そう断言していたのを思い出す。プロ野球選手としての原点はヤクルトにあると。
「宇和島から東京に出てきて右も左も分からない中、監督、コーチ、先輩方にいろんなことを教わった。ヤクルトに入らなかったら今の僕はなかったですね」
 日本の岩村から、世界のIWAMURAへ――。
 東京ヤクルトからはばたいた背番号1は、その道を邁進していた。ヤクルト10年間の通算成績は打率.300、188本塁打、570打点。サードのベストナインに2度、ゴールデングラブ賞にも6度輝き、2006年のWBCでは日本代表の一員として初優勝に貢献した。

 ポスティングシステムで移籍したタンパベイ・レイズでもチームに欠かせない戦力として、万年最下位のチームに変化をもたらせた。若手とうまくコミュニケーションをとり、ヤクルトで教わった緻密な野球を伝えた。たとえば外野手のB.J.アップトン。打者走者に注意を払うことなく、やみくもに外野からホームへ返球していたアップトンに対して、岩村はこう諭した。

「オマエがホームでアウトにしたい気持ちはよくわかる。でも後ろのランナーを考えてくれ。この状況だったらホームは無理だ。それでもホームに投げれば、バッターランナーは必ず二塁に行く。そしたら、また点を取られる可能性が広がってしまう。目先の1点じゃなくて、次の2点目、3点目を防ぐんだ。オレたちが目指している高いレベルの野球はこれだと思うから一緒にやっていこう」

 良き兄貴分として好影響を与え、低迷が続いていたチームは移籍2年目でリーグ優勝、ワールドシリーズ進出を果たした。ニューヨーク・ヤンキースやボストン・レッドソックスなど強豪ひしめくアメリカンリーグ東地区の中での好成績だけに、これは大きな価値があった。
「ただ、メジャーリーグに挑戦するのではありません。メジャーで10年、活躍したい」
 渡米前のそんな発言も、決してビックマウスではなかったことを岩村は自らの実力で証明しようとしていた。

 だが、好事魔多し。翌09年5月、二塁上での守備中に一塁走者から危険なスライディングを受けて負傷退場。左膝前十字靱帯を部分断裂する重傷を負った。約3カ月の戦線離脱を余儀なくされた。
「お医者さんにもメンタルトレーナーにも“ケガをする前の100%の状態にはほぼ戻れないと思ったほうがいい”と言われました。理想を高く持ち続けると、現実とのギャップに押しつぶされてしまう。ある程度の妥協は仕方がない。100%の状態にいかに近づけるか。それが今後のテーマになるでしょう」

 理想と現実は違う――頭では理解していても、その後の岩村は両者の接点を見つけられず、もがき苦しんでいるように映った。移籍先のピッツバーグ・パイレーツでは打撃不振に陥り、シーズン終了を待たずして解雇された。すぐにオークランド・アスレチックスと契約できたが、そこでも満足な結果は残せなかった。再び非情の“クビ”宣告が待っていた。
「完全に自信をなくして、引退すら考えていました。自分が望んだパフォーマンスが出せないと思ったら、僕は引退だと覚悟していますから」
 視界を失った砂嵐に巻き込まれた状況で、「オアシスに出合ったような一言」と明かしたのが東北楽天の監督に就任した星野仙一監督からの誘いだった。

「オマエと一緒に野球がしたかったんや」
 包み込むような星野の言葉に心機一転、岩村は東北楽天のユニホームに袖を通すことを決意する。同じく日本球界に復帰した松井稼頭央との三遊間コンビは仙台のファンから大きな期待を集めた。ところが、杜の都では更なる苦しみが待ち受けていた。打撃の調子がなかなか上がらず、昨季は77試合で、わずか.183。今季は26試合の出場にとどまった。楽天入りの際には「神宮球場でヤクルトファンと会えるのが楽しみ」と話していたが、その雄姿を1軍の公式戦でお披露目することすら叶わなかった。

「(手術した)ヒザの影響はまず感じない」と本人は気丈に語っていたものの、やはり下半身の踏ん張りが効かない打席が目立っていた。守りでもホットコーナーで華麗に打球をさばいていた頃の動きとは、どこか違っていた。
「もう少し体重を落として、キレを取り戻したい」
 オフにはそんな話をしていたこともあった。だが、翌春のキャンプでは、あまり体重が落ちたようには見受けられなかった。減量しようとしてできなかったのか、それとも途中で考えを改めたのか……。いずれにしても理想と現実の狭間で、出口のない迷宮に迷い込んでいるように見えた。

 そして、野球人生3度目の戦力外……。杜の都から花の都に戻っての古巣復帰は決して華やかなものではない。報道によると年俸は10分の1に減り、背番号もミスタースワローズとして背負った「1」ではなく、入団当初の「48」が濃厚という。レギュラーを確約されているわけでもない。すごろくに例えるなら、まわりまわって振り出しに戻ってきたようなものだ。

 しかし逆に言えば、もう岩村に後戻りする場所はない。どん底を見たら、あとは這い上がるしかないのだ。そういえば本人も、こんなことを言っていた。
「地獄があるから初めて天国の良さがわかるし。天国があるから地獄の辛さもわかると思うんですよ。いろんなことを経験して自分の中に取り入れられれば、人間としてデカくなれる。今まで野球をやってきて、僕は岩村明憲っていう人間がデカくなっていることに感謝しています」

 Back to the Beginning、原点回帰といっても、18歳で初めてプロの世界に足を踏み入れた時と同じではない。座右の銘である「何苦楚魂」の如く、さまざまな苦しみも経験してきた。何事も苦しみが礎となる――自らを形作った「ヤクルトの野球」に再び触れることで、生まれ変わった岩村の姿を神宮で見たい。

(次回は12月17日に更新します)

(石田洋之)
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