
高校時代からソフトテニスに全てをかけていた中西麻耶。卒業後、彼女が現役生活の集大成として選んだのが、地元・大分で開催された国体だった。「国体で全てを出し切って、いさぎよく引退しよう」。そう決意した矢先、職場で事故に遭い、右足を切断。ソフトテニス選手としての引退を余儀なくされた。そんな彼女が義肢装具士を通じて出合ったのが陸上だった。初めて出場した北京パラリンピックでは日本人女子の義足ランナーとしては初の入賞を果たした。そして今、彼女が目指すものとは――。編集長・二宮清純が中西選手にインタビューを敢行した。
二宮: 日本の身体障害者陸上界では、同じ障害のクラスで短距離でも幅跳びでも中西選手の右に出る者はいません。陸上を始めてまだ4年というから驚きです。
中西: 中学からソフトテニスをしていたのですが、2008年の大分国体を目指していた06年に、勤務していた塗装業の建設現場で事故に遭い、右足のひざ下を切断しました。大分国体を最後に選手としては引退しようと思っていたので、義足でもソフトテニスを続けるつもりだったんです。ところが、最初はテニスどころか、一歩足を踏み出すことさえもできなかった。悔しい思いでいっぱいになっていた時に、知人から誘われて観に行ったのが身体障害者の陸上大会だったんです。そこでは同じ障害を持った人が、ものすごく気持ちよさそうに走っていました。私は歩くことさえもままならないのに......。そこで、また悔しさがこみ上げてきたんです。「この人たちよりも速く走りたい」と。それで走り始めたのがきっかけでした。
二宮: もともとスポーツが好きだったんですね。
中西: 好きというよりも、スポーツしかできないようなタイプでした(笑)。嫌いな勉強をしたくないこともあって、「私はスポーツで生きていくんだ」と(笑)。
二宮: 高校卒業後、塗装屋さんに就職したのはなぜでしょう?
中西: 社会人になってもテニスを続けたかったのですが、硬式と違って、ソフトテニスはプロもなく、実業団も数社しかないようなマイナー競技なんです。それでも「もっと真剣にテニスをやりたい」という気持ちがあったので、仕事をしながら続けようと。ところが、現実は厳しかったですね。仕事をしていると、なかなかテニスの時間が割けない。筋力トレーニングの時間もままならなかったんです。それで力仕事だったら、それ自体が筋トレになると思って、友人の父親が経営している鉄骨塗装の会社に就職しました。
二宮: そこで事故に遭ってしまった......。その時のことは覚えていますか?
中西: 並べてあった鉄骨が荷崩れをして、ドミノ倒しのように倒れてきたんです。すぐそばで作業をしていたのですが、溶接などの音で全く気が付きませんでした。そのうちドドドドッという音が聞こえたんです。「あれ!?」と思った瞬間に、右足が鉄骨の下敷きに......。「ヤバい!」と思う瞬間もないほど、あっという間の出来事でした。
二宮: 痛みを感じる間もなかった?
中西: はい。「痛い」と思ったのは一瞬で、あとは何も感覚がありませんでした。最初は近くの病院に連れて行ってもらったのですが、結局そこでは治療は無理だと言われたんです。その時点で「あぁ、もしかしたら切断かな」と覚悟しましたね。次に「太陽の家」の中村病院に連れて行かれて、切断をするか、あるいは時間がかかっても神経をつなぐかの選択を迫られたんです。
二宮: 両親の反対を押し切って、自ら切断を選択したそうですね。
中西: はい。迷いは全くありませんでした。というのも、08年の大分国体で現役を引退するつもりでしたから、とにかく早くコートに戻りたかった。聞けば、神経をつなぐのに2年はかかると。しかも、うまくつながったとしても、元のように自分の体重に100%耐えるのはおそらく無理だろうと言われたんです。だったら、もう切断でお願いします、と。「こんなことで選手生命が終わってたまるか!」という気持ちだったんですよ。当時の私にとって、テニスが人生の全てでしたから。
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