主に米国からの輸入車が主流とされていた競技用車椅子。1996年アトランタパラリンピックで2人の金メダリストを輩出し、新風を巻き起こしたのがオーエックス・エンジニアリングだ。2008年北京パラリンピックまでに、同社が開発・製作した車椅子で獲得したメダルは90個にものぼり、海外のトップランナーたちからも信頼を得ている。今回は同社の創設者・石井重行氏に二宮清純がインタビュー。車椅子事業を始めたきっかけ、トップメーカーへの道のりなどを訊いた。
(写真:常に新しいことにチャレンジし続ける石井氏<左>)
二宮: 石井社長はご自身が車椅子生活になったことをきっかけに、車椅子の製造を手掛けるようになったということですが、もともとはオートバイの開発・製造をされていたそうですね。
石井: 開発というよりも、単に好きでいじっていただけなんですよ。もう、高校の時からバイクばかりいじっていましたから。

二宮: 手先が器用だったんでしょうね。いつも油まみれになって、セッティングしたり、チューニングしたりしていたと。私も昔はバイクに乗っていましたから、よくわかりますよ(笑)。
石井: 勉強は全然、できませんでしたけどね(笑)。当時はお金がなかったものですから、よく解体屋さんに部品を探しに行きましたよ。あそこは宝の山でしたからね。何かいい物をみつけては、持って帰ってきて、いろいろと自分のバイクに手を加えていましたね。

 天からのお告げ

二宮: それだけ好きだったバイクいじりが、事故でできなくなってしまったと。
石井: はい。高校卒業後、いくつかのアルバイトを経て、ヤマハ発動機に入社したのですが、28歳の時に辞めて自分でオートバイ販売店を開いたんです。ヤマハには販売店という立場からの要望を伝えたりしていたのですが、その要望通りにつくってもらったバイクのテスト走行をしていた時に、転倒事故を起こしてしまったんです。当時はレース活動もしていましたから、いつも徹夜状態でした。それで、その日もほとんど寝ていなくて体が思うように動かず、カーブで曲がり切れなかったんです。それでも、そのバイクは2台しかない試作車で、テスト走行の後にはカタログ撮影もありましたから、「バイクだけは守らなくちゃいけない!」と、とっさの判断で、バイクを草むらの方に逃がしながら、自分は後ろに飛び降りたんです。そしたら、運の悪いことにヒューム管が半分、土の上に出ていた所に落ちてしまった。それで脊髄を損傷して、車椅子生活になったんです。

二宮: 生活の中心だったバイクに乗れなくなったわけですから、大変なショックだったでしょうね。
石井: 人生で一番ショックでしたね。35歳で、これからという時でしたから。仕事でもようやく自分の地位ができつつあったんです。でも、何よりもショックだったのは、バイクに乗ることも、いじることもできなくなってしまったこと。それが、自分の人生そのものでしたからね。


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