“ドーハの悲劇”から20年が経った。1993年10月28日、日本サッカー初のW杯出場は、最終予選イラク戦での引き分けによって、夢と散った。試合終了直前、まさかの失点に多くのサッカーファンが悲しみに暮れた。だが、 “悲劇”を糧に成長を遂げた日本サッカーは4年後、これを“歓喜”に変えた。98年のフランスW杯で初出場を果たすと、現在まで5大会連続で本大会にコマを進めている。日本サッカー史を語る上で欠かすことのできない出来事を、オフト・ジャパンを牽引した司令塔・ラモス瑠偉に焦点を当てて振り返る。
<この原稿は2002年の『英雄神話』(徳間書店)に掲載されたものです>

「オレ、神様を信じている。
 日本に来たのも、バイクで足をケガしたのも、日の丸つけたのも、ウチの奥さんと巡りあったのも、みんな神様が決めたこと。
 ただ、一度だけ神様を信じられなくなったことがある……」

 ラモス瑠偉は、そこまでまくしたてるように話すと、静かに目を伏せた。
 古い取材ノートを読み返すと「長い沈黙……」との走り書きがある。
 日本中が悲嘆に暮れたのは、今から9年前の秋のことだ。
 1993年10月28日深夜(日本時間)、この国は悲鳴に包まれた。後にこの出来事は“ドーハの悲劇”と呼ばれることになる。

 アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選。日本はワールドカップ初出場に王手をかけていた。
 ドーハ・アルアリ・スタジアム。
 相手はイラク。
 2対1、日本リード。
 ラスト、ワンプレー。

 ここで悲劇は起こる。
 イラクはショートコーナーからフセイン・カディムがニアポスト付近へセンタリング。次の瞬間、ジャファール・オフラムのヘディングシュートはゆるやかな弧を描いてゴール左隅へ。

「まさか!? いったい何が起こったのかわからなかった……」
 こう振り返ったのはベンチに座っていた都並敏史だ。
「人間、あまりにも大きなショックを受けると気持ちがエアポケットに落ちたような状態になるんですね。それをこの時初めて知りましたよ」
 搭乗手続きまですませていたアメリカ行きのチケットがスルリと手から滑り落ちた瞬間だった。

 日の丸の司令塔の役割を担っていた(背番号10)は頭を抱え、茫然自失の表情で深々と芝の上にへたり込んだ。
 試合終了を告げる無情のホイッスルが鳴り響いたのは、皮肉にもその十数秒後のことだった。

 秘話がある。
 コーナーキックの直前、実はラモスはイタリア人レフェリーにポルトガル語でこう問いかけている。
「アカボウ?」
 返ってきた言葉は、
「スィ(イエス)!」

 実は「アカボウ」なる言葉はポルトガル語で「終わり」という意味であり、ラモスはイラクの選手がコーナーキックを蹴った時点で試合終了のホイッスルが鳴ると考えていた。
 わざわざポルトガル語を用いたのはイラク人に気付かれないためだった。

 ところが――。
「なぜか、つながってしまったのよ。あれはなぜなの? ポンとコーナーキックを蹴って終わりじゃなかったの。
 それなのに、わからない、わからない……。なぜイラクはショートコーナーやったの。時間もないのに……。あの試合のことわからないことばかりよ。
 ワタシ、いつかあのレフェリーに聞いてみたい。“あのアカボウは何だったの?”って。手紙を出してもいい。ホントのことが知りたいの。なぜ、なぜなのって……」

 もう9年も前のことだというのに、ラモス瑠偉は未だにこの問題の領収書に納得してサインを走らせることができない。なぜ「負けた」(結末は2対2のドロー)のか――。悲劇を引きずっているのではない。その原因に彼はこだわり続けているのだ。

 なぜなら、そこにこそ勝者と敗者を隔てる分水嶺、もっといえば勝敗を隔てる因子が隠されていると考えているからだ。
「ワールドカップに行きたいとか、行けるかも、とか……。いや、そんなもんじゃない。あの時のオレは使命感の固まり。行くぞ、行くぞ、連れていくぞ。もう肉体じゃない。気持ちのお化けみたいな状態だったんだ。
 引き分け? 違う。ワールドカップに出られるかどうかが勝負だった。だから負けだ。命懸けの勝負に負けたってこと。
 いろんな面で足りない部分があった。もう何年か早くJリーグが始まっていたら……。でも、オフト・ジャパンはいいチームだった。それは確か。勝つことに飢えた連中がよくまとまり、よく戦った。韓国に勝った時点でちょっと油断が出たのは、やっぱり経験不足だよ。
 まだワールドカップは早い、神様がそう判断したんだから仕方ないよ」

 クリスチャンでもあるラモス瑠偉は新約聖書の「ヨハネ黙示録」をよく口ずさむ。
 第2章「士師記」にこんな一節がある。
 ――復讐するは我にあり、我これを報いん(申命記32・41)
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