その圧倒的な速さで見る者を魅了してきた末續慎吾。40歳の今も走り続ける日本陸上界のレジェンドは、東京五輪の延期をどうとらえているのか。当HP編集長・二宮清純との対談では、オリンピアンの複雑な心境が明かされた。

 

二宮清純: 末續さんの練習にも、新型コロナの影響は出ていますか。

末續慎吾: 10歳で陸上を始めて、かれこれ30年ほど走っているので最低限やるべきトレーニングはわかっていますから、あまり支障はありません。

 

二宮: 東京五輪が延期され、開催自体を危ぶむ声も根強く出ています。こうしたなかで心配なのが、選手たちのメンタル(精神面)です。その点を五輪経験が豊富な末續さんは、どうお考えですか。

末續: 年齢によって、受け止め方が異なるように思います。10代から20代前半の選手は、「もっと練習ができる」と前向きにとらえることも可能でしょうが、20代後半から30代の選手にはきついかもしれません。体力的には問題なくても、気力の維持が大変です。現に、引退を口にする選手も出てきていますからね。

 

二宮: コロナ禍は日本だけでなく、世界共通の難題です。仮に来年開催できたとしても、ベストコンディションの選手が少ないため、世界記録は期待できないという声も聞かれます。

末續: 心配ですね。ほかにも、選手の選考過程が簡素化され、本当に強い選手が選ばれるのかといった懸念があります。一部では、「リモート五輪」という案も取りざたされていますが、違う場所で走ったら、それはもはや勝負として成り立ちません。

 

二宮: そうですよね。条件が変わってしまうし、何より競い合うからこそ記録が伸び、感動やドラマが生まれるわけですから。

末續: そういう意味では、スポーツは基本的に“密”なものなんです。もう一度、「五輪とは何か」という原点を見つめ直して、議論してほしいですね。

 

二宮: この不安定な状況ですから、後輩から相談されることも多いのでは?

末續: そうですね。よく聞くのは、「(五輪が延期されて)ホッとした」という声です。同時に、自分の気持ちに整理がつかないのか、「どうして、私はホッとしているのでしょう」と尋ねられることもあります。

 

二宮: 複雑な心境ですね。どのように答えるのですか。

末續: それぞれの抱えている背景や思いなどを聞いて、一緒に原因を考えたりもしますが、「五輪が怖かったんじゃないか」という話はよくします。プレッシャーやストレスが強いからこそ、1年延びたことでホッとしたのではないかと。

 

二宮: 末續さんは、3度(2000年シドニー、04年アテネ、08年北京)五輪に出場されていますが、そうした恐怖心のようなものはありましたか。

末續: ありました。国の税金で参加させてもらっているという責任と、国民の期待を感じるがゆえの恐怖心ですね。初めての五輪だったシドニーは前向きな気持ちで臨めましたが、アテネや北京は恐くて仕方なかったです……。

 

二宮: 末續さんは、世界陸上パリ大会(03年)の200メートルで銅メダルを獲得。日本短距離界初の世界大会でのメダル獲得という快挙を達成し、アテネへの期待も高まりました。

末續: 「アジア人選手は、メダルを取れない」といわれていた時代です。その既成事実を破ってメダルを獲得した成功体験が、いつしか「五輪でもメダルを」という周囲の期待を生みだし、自分自身も「そうでなければいけない」と考えるようになりました。

 

二宮: 周囲の期待とともに、自分で自分を追い込んでしまったわけですね。

末續: はい。しかしアテネでは、100メートルで2次予選敗退。4×100メートルリレーも4位で、メダル獲得には至りませんでした。周囲は励ましの声を掛けてくれましたが、自分にがっかりして、その後、原因不明の手の震えを覚えるようになりました。

 

二宮: そんな苦闘があったとは知りませんでした。その後も、周囲からは北京に向けて、期待のまなざしを向けられていましたね。

末續: それなので、どこかで一度は、思いっきり負けようとも考えました。そうすれば、周囲が描く偶像を破壊できるんじゃないかと思ったんです。

 

二宮: でも、アスリートとしてそれはできなかった。

末續: そうですね。その後も、日本ではそれなりに勝って、海外では決勝に残れるか残れないか、当落線上を行き来することが続きました。ますます周囲や自身が望む姿とのギャップに悩むようになり、それを埋めるかのごとく、練習に明け暮れました。

 

(このつづきは10月1日発売の『第三文明』2020年11月号をぜひご覧ください)

 

末續慎吾(すえつぐ・しんご)プロフィール>

1980年6月2日、熊本県熊本市出身。小学5年生から陸上競技を始め、九州学院高校時代は国体の100メートルで2度優勝した。東海大学進学後、2年時に関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)200メートルで優勝。20秒67のタイムで五輪参加A標準記録を突破し、シドニー五輪(2000年)の代表入りを果たす。大学卒業後は、スポーツ用品メーカーのミズノに入社。03年の世界陸上パリ大会では、200メートルで日本短距離界初となる世界大会でのメダル(銅メダル)を獲得した。08年、北京五輪の4×100メートルで銀メダルを獲得(銅メダルからの繰り上げ)。帰国後、無期限の休養を宣言した。11年、競技に復帰し、ロンドン五輪を目指すも代表入りは果たせず。15年にミズノを退社し、プロの陸上選手として活動を開始。16年には、星槎大学の特任准教授に就任した。18年、自身の走ることに対する世界観を表現した「EAGLERUN」を起ち上げ、選手生活を続ける傍ら、後進の育成や競技普及のためのイベント開催などに尽力している。