後半に入っても、ピッチの風景は変わらない。アヤックスが7割近くボールを支配し、グラウンダーで短いパスを素早くつないでグレミオDF陣をペナルティエリア内に封じ込める。時折、ハーフコートマッチの様相を呈するワンサイドの攻め。しかし、アジウソンを司令塔とするグレミオの堅牢は崩れない。
 56分、アヤックスに決定的なチャンスが訪れた。クライファートにグレミオのセンターバックのリバロラが突っかけ、こぼれたボールをリトマネンが拾い、右足のインフロントにかけた。しかし、これはGKダンルレイの真正面。アヤックスは絶好の先制機を逃し、24歳のフィンランド人は力なく東京の夜空を仰いだ。
 なぜリトマネンほどの名手が、GKへのパスのような弱々しいシュートを放ったのか。ファンハールが言うように、もし国立の芝がアヤックスのプレーヤーに災いをもたらしたとしたら、真っ先にこの場面をあげなくてはなるまい。
 GKとの1対1というのは、我々が考えるほど容易なものではないらしい。シュートに角度がつかないからだ。そこでリトマネンはGKの頭上にゆるやかな弧を描く、チップシュートを狙ったのではないか。
 ところが先述したように、国立の芝はヨーロッパのスタジアムに比べて浅く、地面も硬いためにボールの下に足先が入らず、リトマネンの咄嗟のアイディアはボールが地面を離れる前に挫折してしまったのである。
 セルジオ越後氏は、このプレーを玄人の視点でこう種明かしする。
「蹴った瞬間、黄色い粉が飛んだでしょう。あれは土を蹴っている証拠。国立は芝が短いため、慣れてないとどうしてもああなってしまう。ゴルフでいう“ダフる”って感覚と同じじゃないかな」

 押しに押しながらも均衡の破れないアヤックスは67分、オフェルマルスに代えて身長197cmのナイジェリア人カヌを投入した。この11分前、グレミオはリバロラが退場処分を受け、10人での戦いを余儀なくされていたこともあり、ファンハール監督はここぞとばかりにパワーゲームに出た。最悪のシナリオながら、膠着状態でのカヌの投入は、アヤックスにとっては予定どおりの作戦だったといえよう。
 歯に衣着せずに言えば、アヤックスはカヌを投入した時点で、芸術はおろか様式美まで自らの手で放棄した。「197cm」のリアリズムの向こうには勝利という絶対主義が横たわっており、カヌを投入した時点で、お家芸の「ボール・サーキュレーション」はパタリと影を潜め、品性のかけらもないファイナルクロスが右から左からナイジェリア人の頭めがけて追撃砲のように発射された。そのうちのひとつが運よくピンポイントショットになれば「たまや〜」と大向こうから掛け声のかかりそうな運だめしのロシアン・ルーレット。カヌが登場してからというもの、初冬の寒さが一層、身に沁みた。
 67分以降、奥寺康彦氏も沈みがちとなった。
「カヌを投入してクライファートと2トップにし、点を取りにいこうとした意図は分かるけど、中盤のバランスがものすごく悪くなったね。アヤックスらしさがすっかり消えうせてしまったよ」
 カヌが登場するまでのアヤックスは、ピッチの状態に手を焼きながらも、ボールを持てば丹念にパスをつなぎ、守勢に回れば3トップは自陣のゴールライン付近までケアする献身ぶりで、トータリズムに忠実であり続けた。前線に長身の選手を揃えていながら、やみくもに空中戦に臨まなかったのは、自らのスタイルへの自負と矜持によるものではなかったか。
 おそらく、浮き球を放り込んでイーブンボールを競るような確率まかせのサッカーは、彼らにとっては侮蔑の対象なのであろう。しかし、それならばいかに堅牢とはいえ、グレミオごときのゴールは、スタイリッシュにこじあけてみせなければなるまい。
 ハードスケジュールの疲れからか、後半11人の運動量がガクンと目に見えて落ちた時点で、アヤックスのロマンは潰えたといえる。

 セルジオ越後氏は厳しく指摘する。
「後半のアヤックスは、パスを出す人はいても受ける人がいない。パスを出した人は、スペースに飛び込まず歩いている。相当疲れていたのかな。皆、ラモスになっちゃったよ。
 アメリカン・フットボールにたとえていえば、クォーターバックばかりでレシーバーがいないサッカー。アヤックスはファウルをしない、受けないチームで有名だけど、点を取ろうと思ったら、ファウルをもらいにいかなくちゃ。このチーム、約束事はうまいが、はっきりいってアイディアはないね。
 それにスペースを広く使ってはいるが有効には使っていない。いくらパス回しがうまくったって、相手の前で回していちゃ意味がない。グレミオDF陣の裏に回り込むシーンがほとんどなかったからね。10人になってもグレミオには余裕があった。その何よりの証拠は、GKがパンチングで逃れるシーンが1回もなかったこと。これは、それほど厳しい試合ではなかったことの証明だよ」
 グレミオのルイス・フェリペ監督の試合後のコメントを紹介しておこう。
「力は互角だった。確かにアヤックスの方がボールを持っている時間は長かったが、これは最初からの戦術だった。10対11で64分も戦い、アヤックスを無失点におさえたのは評価できるが、結果的に負けたので成功とはいえない」

 アヤックスを「欧州のスーパーチーム」(グレミオ、ルイス・フェリペ監督)と呼ぶなど、自らよりも格上に位置づけたグレミオは、立ち上がりからロープならぬゴールマウスを背に敵のブローを効果的に引き受ける作戦に出た。ジャブをけしかけ、ワンツーを追加し、ガードがあいた一瞬のスキを見計らってカウンターを仕掛ける。単純きわまりない戦術ではあるが、貧者の意地は時として、賢者の知恵をしのぐ。意地悪い見方をすれば、これがサッカーの面白いところ。「攻撃は最大の防御」ならぬ「防御は最大の攻撃」というパラドックス。
 とりわけ、スイーパーのアジウソン。引退後、彼は日本のセキュリティ・カンパニーの宣伝マンとして雇用の機会を与えられるべきだろう。彼はこの試合でハーフラインを一体何度越えただろう。ミランの最終ラインを統率するフランコ・バレージがリベロの象徴なら、このアジウソンこそは古典的なスイーパーであり、相棒のリバロラと組んで掃海艇のように危険水域をパトロールし、アタッカーの侵入を撃退し続けた。ゴイアノ、ジーニョの二人のボランチも献身的かつ忠実に任務を遂行した。この二人の執拗でハードなマークは、フィンランドが生んだ注目の10番、リトマネンをしばしば立ち往生させ、効果的な仕事を未遂に終わらせた。
 しかし、この南米代表に見るべきものがあったとしたら、こうした自陣におけるディフェンスだけだった。勝利を前提に考えれば、FWジャルデウが60分、69分、75分と3度の得点機のひとつでもモノにしていれば、アップセットは成立していた。
 もうひとりのFWヌネスは、豊富な運動量にものをいわせてピッチの上を120分に渡って徘徊したが、攻撃にアクセントをつけるのが精一杯で、不利な局面を打開するFWの働きをすることはできなかった。
 かくしてグレミオの攻撃に最後までサンバのリズムを聞くことはできなかった。94年、ACミランを破ってクラブ世界一に輝いたベレス・サルスフィエルド(アルゼンチン)も、リアクションにしか見るべきもののない守備的なチームではあったが、しかし、スペクタルと形容するほどの試合でもなかった。

 ナショナル・スタジアムの芝生の上に描かれた無数の幾何学模様。それはモダン・サッカーの機能美を浮き彫りにするものではあったが、芸術にまで昇華しえたかというと、疑わしい限りである。
 極東の島国で行われるとはいえ、世界一を決めるゲームである。両チームにははっきりとした力の差がない限り、ゲームが硬直してしまうことは珍しいことではない。ピッチに立つ11人のプレーヤーは互いに長所を潰し、短所を突き、個性を消しあうのだ。「いかに戦ったか」が重要な問題なのであり、「どっちが勝ったか」はさしたる問題ではない。
 結末で意外だったのは、敗者が粛然と結果を受け入れたのに対し、勝者は最後まで自らのコンセプトにこだわり続けたこと――。

(おわり)

<この原稿は『Number』(文藝春秋)1996年1月4日号に掲載されたものです>
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