2日に閉幕した「世界陸上2007大阪」、最終日に行われた女子マラソンで、粘りの走りで銅メダルを獲得した土佐礼子(三井住友海上)。
 その土佐を陰で支え続ける夫・村井啓一氏が、大阪世界陸上代表入りを決めた昨年11月の東京国際女子マラソンまでの道のりを語る!(後編)

※3月に終了した「週刊シミズオクトスポーツ」にて06年8月〜07年3月、不定期連載でお届けした「キーマンの告白 〜陰の立役者たち〜」の再録です。
 ボルダー合宿が転機に

 礼子は松山大陸上部時代の1学年後輩にあたります。僕はもともと箱根駅伝に憧れて関東の大学を目指していたのですが、一浪してもダメだった。それで関東の大学はあきらめて、松山大に進学しました。関東の大学にすんなり行っていたら今の自分はないわけですから、人生とはちょっとしたことで大きく変わると実感しています。

 大学時代の礼子を知る人たちは、今のマラソンでの活躍に驚いていると思います。僕自身も、礼子が将来、五輪に出るほどの選手になるなんて思いもしませんでした。母校の松山商高の練習に参加するときも、高校生より遅いくらいでしたから。
 ただ、練習で手を抜かないというのは当時から変わらない。真面目にコツコツと練習する姿を見て、松山商高時代の恩師・竹本英利先生が「コイツは本気なんだな」と感じてくれたと思います。

 鈴木秀夫監督が竹本先生の先輩という縁で、卒業後は実業団の三井住友海上に入りました。入社した99年、セビリアの世界選手権のマラソン代表だったチームメイトの市河麻由美さんの練習パートナーとして、ボルダー合宿に行ったんです。これが大きなきっかけとなりましたね。約40日間の合宿でしたが、急速に力がつきました。この時に身体がだいぶ絞れたことも大きかった。マラソン練習を経験するのも初めてでしたが、「マラソンで勝負したい」という手ごたえを感じたと思います。

 その後、シドニー五輪の選考レースだった2000年3月の名古屋国際女子マラソンで高橋尚子さんに続く2位(2時間24分36秒)、同年11月の東京国際女子マラソンで日本人最高の2位(2時間24分47秒)と、マラソンで続けて結果を出し、注目されるようになりました。01年8月、チームメイトのシブ(渋井陽子)とエドモントン世界選手権のマラソンを走り、そこで礼子は銀メダルを獲得しました。

 長引いた故障

 その頃からアテネ五輪を目指していたのですが、自己記録(2時間22分46秒)で4位に入った02年4月のロンドンマラソン後は、相次ぐ故障に悩まされました。
 当初は、高橋尚子さんが出場することで注目されていた03年11月の東京に出る予定でした。9月初め頃だったと思いますが、夜中に「通知不可能」の電話がきたんです。今でも想定外の時間に電話が鳴るとドキッとしますが、その時も、昆明で合宿中の礼子からだとピンと来ました。電話口の礼子は泣きながら「故障した……」と。そこまで順調だっただけにショックは大きかったと思います。
(写真:04年名古屋国際女子マラソンで、劇的な逆転優勝を果たし、アテネ五輪代表入りを決めた)
 
 東京を回避して、3月の名古屋に目標を切り替えましたが、その後も故障が続きました。それでも何とかスタートラインには立つつもりでいました。ところがレースの2週間前になって、今度は風邪を引いてしまった。本人を励ますつもりで「オリンピックがすべてじゃないし、アテネがすべてじゃないよ」という話をしたんです。そうしたら「あきらめろって言うこと?」と珍しく反論してきました。普段、表に強い感情を出すことはほとんどないだけに、その時は本人のアテネにかける強い気持ちを感じましたね。

 故障で走れない時期、プールでのウォーキングにつきあったことがありました。25mを何度も何度も往復するのですが、あまりに単調すぎて気分が悪くなり、僕は2時間でリタイヤしてしまった……。でも彼女は3時間プールで歩き続けました。
 つらい時期も本当に頑張ったな、と。彼女の地道な努力と強い気持ちが、名古屋でのあの走りにつながったのだと思います。

 アテネ五輪では、野口みずきさんが金メダルを獲得、礼子は5位という結果でした。厳しいコンディションの中、力は出し切ったと思います。ただ、アテネの目標はメダルだったので、本人としては悔しかったでしょうね。
 その年の12月、タヒチで結婚式を挙げました。結婚後も今までと変わらず競技を続けていくことに迷いはなかったはずです。自分が納得するまでやるのと、悔いが残ってやめるのとはまったく違う。僕もむしろ、納得するまでやって欲しいと思っていました。

 メダルへの想い

 マラソン選手として、精神的にも肉体的にも今が一番脂が乗っている時期だと思います。走りのフォームも年々、良くなっている。高校や大学時代と比べたら別人のようです。アテネ五輪代表入りを決めた名古屋の走りと比べても、腰がしっかり入っていますし、腕振りも力強くなった。しっかりと練習ができればこういう走りができるんだな、と。まだまだ、伸びしろはあると確信しています。
 
 インタビューの話しぶりを見ていると、自分に自信がついてきましたね。でも性格は学生時代から全く変わらない。見たまま、普段はのんびり、おっとりした性格です。でも走り出したら、変わりますよね。そのギャップが魅力だと思います。
 よく、「暑さが得意」だとか「コンディションが悪い方がいい」などと言われますが、決してそういうわけではない。ただ、我慢強いんですね。

 あの性格なので、口には出しては言いませんが、五輪でメダルが取れなかった悔しさ、もう1回挑戦したいという気持ちが、今までの走りへのモチベーションにつながっているのではないでしょうか。厳しい練習に耐えられるのは、その気持ちが支えになっているからだと思いますし、今の恵まれた環境でできるところまで精一杯やりたい、という気持ちは強いはずです。

 今回の東京での優勝はゴールではなく、新たなスタートです。アテネ五輪の前も経験したように、この先、何が起きるかわからない。強い者が当たり前に勝つとも言い切れない厳しい世界ですし、これから先もきっと、もうひと山、ふた山あると思います。まだまだ、夢への挑戦は始まったばかりです。今後、僕も陰ながらサポートしていきたいですね。

(終わり)

村井啓一(むらい・けいいち)プロフィール
1973年11月20日、広島県出身。松山大卒業後、NTT西日本でフルタイム勤務をこなしながら市民ランナーとして活躍。03年にはニューイヤー駅伝に出場。現在は松山大学職員。マラソンアテネ五輪代表の土佐礼子選手と松山大時代からの交際を実らせ04年12月に結婚。東京で競技生活を続ける土佐選手とは“遠距離婚”生活を送る。マラソンの自己ベスト記録は2時間21分08秒(02年びわこ毎日マラソン)。