4月14日、沖縄県泡瀬にある県立体育館――。
 試合の後、琉球FCハンドボールの選手兼ゼネラルマネージャーの田場裕也は驚くほど淡々としていた。
 昨季まで田場は、世界最高水準のリーグの一つであるフランスリーグのウサム・ニームでプレーしていた。彼の持ち味は、勝利に対する執着心である。それを見慣れている僕にとって、この試合の後の田場の姿は意外だった。
(写真:FC琉球ハンドボールの選手たち。中央が田場選手)
 昨年6月、田場はウサム・ニームとの3年契約が終了した。チームの中心選手である田場に対してチームは契約更新を申し出た。また、他の欧州のクラブからも獲得の打診もあった。そんな中、田場は、彼の生まれ故郷である沖縄にハンドボールチームを立ち上げる道を選んだ。
 日本のハンドボール界は、絶望的な状況に追い込まれつつある。日本の多くの競技は五輪を中心に動いているが、ハンドボール男子日本代表は88年のソウル五輪から出場権を得られていない。また、企業がチームを丸抱えする実業団スタイルがリーグの基本であるが、他の競技と同じようにこのシステムは行き詰まりつつある。
 サッカーのJFLに所属するFC琉球のハンドボール部門として実質的に立ち上げたのが昨年の9月。今年1月に選手のトライアウトを実施。今月、初めての公式戦となる沖縄県一般ハンドボール大会に参加したのだ。

 ところが――。
 準決勝の対那覇西クラブ戦で、FC琉球は33対39で敗れてしまった。田場は試合後、「敗戦は自分の責任である」と語った。
 FC琉球は、選手はまだ12人しかおらず、監督、コーチもいない。田場が、練習、試合を仕切っている。資金面を支えてくれる、スポンサーも十分ではない。走りながらチームを作っている状態である。
 チーム始動以来、田場の作った練習メニューは、ハンドボールの技術よりも体力面の強化に重きを置いていた。
「本当にこの大会に勝つつもりならば違った練習をしていた。でも僕は、この大会の先、1年後を見ているんです」
 田場が考えているのは、来年からの日本リーグ加入である。
 那覇西クラブは弱いクラブではないが、全国的に見れば強いクラブではない。そのクラブに勝てないチームが、1年後に日本のトップのリーグに参加して、まともに戦うことは難しいだろう。

 また、実業団システムを念頭においている、日本リーグが完全なクラブチームであるFC琉球をサポートできる体制にはない。
 実業団でプレーする社員選手は競技を終えても会社に残ることができる。FC琉球のような、クラブチームの選手には、将来の保証はない。また、メジャーリーグのように何億という、通常の会社員が一生かかって稼ぐ金額を一年で手に入れることがスポーツでもない。そうした状況の中で選手がモチベーションを保ち続けることは容易ではない。
 田場の前に立ちふさがっている壁は相当高い。

 大学生の時、田場は将来の夢について「世界一の選手になること」と答えていた。
 今、田場の夢は変わった。
「FC琉球を、サッカー、ハンドボールなどで欧州トップの力を持っているFCバルセロナのようにすること」
 今のFC琉球の現状を見ると、その夢は荒唐無稽に聞こえる。ただ、高校生の時に世界一の選手を夢見た時も同じだった。田場の人生は、高みを見てひたすら走り続けてきたのだ。

 敗戦の翌日、田場の後援者たちがチームの選手を招待して、食事会を開いてくれた。本来は、優勝祝勝会にするはずだったという。田場にとって、そうした思いやりは何よりありがたいことだったろう。
 今度の田場の夢の達成は、前の夢よりもずっと難しい。そして、一人では達成できない夢だ。
「沖縄のため、ハンドボールのために何かしたい」
 困難を乗り越えるとするならば、この田場の一途な思いに、選手はもちろんだがそれ以外にどれだけの人が動いてくれるか――彼は今、そのことを痛感しているだろう。


田崎健太(たざき・けんた)プロフィール
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。1999年末に退社。サッカー、モータースポーツ、ハンドボールなどスポーツを中心にノンフィクションを手がける。著書に『cuba ユーウツな楽園』(アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』(幻冬舎)、『ジーコジャパン 11のブラジル流方程式』(講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』(新潮社 2006年5月30日発売)がある。
田崎健太公式サイト『liberdade.com』[/b]