西武で11年間にわたってピッチングコーチを務めた八木沢壮六(現千葉ロッテ監督)が森野球を分析する。
「森さんの野球は、まず1点をとる野球。森さんは“守りの野球”を標榜していますが、点が入ってないことには、守るものがないでしょう。
 初回からでもバントを使うのは、とにかく1点を先にとり、相手にプレッシャーをかけるため。相手が点を追いかけるパターンになれば、それに対応する形で、いろんな手が打てる。そういう状況になって初めて3人のリリーフ投手もいきてくるわけです。西武からロッテにきて、西武の1点がいかに大きくのしかかるかということが分かりました。今後、西武に勝つには、とにかく先に点を与えないこと。それが鉄則です」
 八木沢と同じく西武時代、コーチとして森野球に接し続けてきた黒田正宏(元ダイエーバッテリーコーチ)も「森さんの野球は守りの野球」とした上で、次のような持論を展開する。
「森さんの野球は確かに手堅いが、しかし、がんじがらめというわけではない。ものすごく順応性がある。あれは83年の巨人との日本シリーズのことです。主砲のレジー・スミスに対して、どう攻めるかということになった。スコアラーの報告は“インハイが弱い”というもの。しかし、僕と東尾が“インハイは難しいんじゃないか”と反論すると“ピッチャー別で行こう”ということになった。東尾や小林誠二といったコントロールのいいピッチャーはアウトローで、森繁和や松沼兄弟のように速いボールを投げられるピッチャーはインハイで勝負したわけです。このように常に臨機応変、流れの中で采配を考えている。ものを絶対視ではなく、相対視する。どうしたら、相手より1点でも失点を少なくすることができるか。森野球の原点はそこにあると思いますね」

 巨人時代の同僚、瀧安治(元巨人守備コーチ)は、さらに噛み砕いた説明を試みる。
「森さんの野球は要するに相手の逃げ道をふさぐ野球。相手の戦力に余力があるうちはガードを固めてじっくりと構えているが、いざ崩れはじめると逃げ道に先回りしてカギをかけ、閉め切った上で袋叩きにする。良くも悪しくもV9時代の川上さんよりも徹底している。なにしろ9点とったら、次の10点目をとりに行くんだから。それだけ勝つことに必死だということでしょう」

 西武の監督に就任して8シーズンで7度のリーグ優勝。そのうち6度の日本一。今年こそ最終戦で日本一の座を逃したとはいえ、いささかなりとも森監督の評価に影響を及ぼすものではない。80年代から90年代を代表する名将として、森祇晶の名はプロ野球史に永遠に刻みこまれるであろう。
 現役時代の森はライバルたちとの生き残り競争に明け暮れる日々を送った。森がレギュラーの座を確保してからも、川上は大橋勲、槌田誠、阿野鉱二といった六大学を代表する捕手を獲得し続け、森に安息を与えなかった。普通の精神構造の持ち主なら、プレッシャーに押し潰されるか、監督に反感を抱き、支配の影から脱出しようと試みるかのどちらかだろう。
 しかし、森は監督には不平を漏らさず耐え続けた。闘争心は全てライバルを撃退することのみに向け、自らの城を守り抜いた。真の意味でのプロフェッショナルである。保身のための権謀術数を批判する向きもあるが、弱肉強食を旨とするプロ野球の場において、それは負け犬の遠吠え以外の何物でもない。私たちはプロ野球選手に道徳律を語ってもらうほど堕落はしていないつもりだ。

 ある一時期、森からレギュラーポジションを奪い取ることに成功したものの、ケガが原因で奪い返され、後に大洋ホエールズに移った大橋勲は述懐する。
「現役時代はコンチクショーと思うことの連続でしたよ。でもね、今年、リーグ優勝を決めて、インタビューで答えている森さんの顔を見てハッとした。僕も年をとったから分かるんだけど、森さんの顔にはいろんな経験を積み、我慢を重ねてきた“相”のようなものが浮き出ているんです。それを見た時は、“自分はいったいどれだけの努力をしたんだろう。我慢をどれだけ重ねてきたのだろう”と思わず問いかけました。ある意味で僕はレギュラーをとれなかった理由を、森さんのせいにしていた。自分が甘かったということですね。私がいうのも変ですが、プロ野球であれだけ頑張った人はいないんじゃないでしょうか」
 ひとしきり思い出話に花を咲かせた後、大橋は神妙な口調で続けた。
「もし、今度、森さんに会う機会があったら“あなたはすごい人だった”と素直に言いたい。そして、その森さんを唯一追いつめ、わずかの間とはいえレギュラーの座を奪い取った自分に対しても“オマエはよくやった”と誉めてやりたい。この気持ち、命を賭けて戦い、憎み合った人間同士じゃないと決して分からないでしょうね……」

(後編につづく)

<この原稿は『Number』(文藝春秋)1993年11月30日増刊号に掲載されたものです>
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