高校野球史上最高の名勝負は何か? と問われれば、私はイチにもニもなく1969年夏の決勝、松山商対三沢高戦をあげる。三沢には“伝説のエース”太田幸司がいた。
 この時、私は小学4年生だった。松山商が故郷・愛媛の代表だったということもあり、野球少年だった私はくい入るようにテレビ画面を見つめ続けた。
 少年のヒーローは松山商のエース井上明(現・朝日新聞運動部記者)だった。井上が練習の最後、ストライクが10球続けて入るまでブルベンを去らなかったという話を人づてに聞き、少年の私はそれを真似た。自宅の庭に石油カンを置き、10メートル向こうから軟式ボールを投げ、10球続けて命中するまで、繰り返し、練習を行なった。
 しかし、10メートルの距離とはいえ、10球続けて命中させるのは至難の業であり、8球目か9球目で、また最初からやり直しとなる。そうしているうちにあたりは暗くなり、肩を落として石油カンを片付ける。そんな日々を送ったものだ。

 浜風がやみ、日が西に傾きかけた頃、球史に残るイニングが訪れた。
 0対0。延長15回裏、三沢はノーアウトで先頭打者の5番・菊池弘義が三遊間を破った。続く高田邦彦がピッチャー左に送りバント。小フライになったこの打球をサードの谷岡潔が一度グラブに入れて落とし、無死1、2塁。これを谷川義彦がバントで送り、局面は1死2、3塁とかわった。
 ここでマウンド上の井上は8番・滝上哲を敬遠して満塁策をとる。井上−大森光生のバッテリーは監督・一色俊作の指示もあり、ラストバッター立花五雄との勝負に出たのだった。
 押し出しかスクイズ、もしくは外野フライでサヨナラ、内野ゴロでも、その打球の転がり方いかんによっては万事休すの場面である。
 5万5000人の大観衆をのみ込んだマンモス球場は揺れ、日本中が固唾を飲んで次の一瞬を見守った。
 井上はスクイズを警戒した。その結果、スコアボードには3個のボールランプがならんだ。松山商にすれば絶体絶命のピンチである。
「あと一球で勝つんだなァ。胸がどきどきしてね。何にも言えん気持ちだったんですよ」
 後年、私の取材に立花はそう語った。
 それは、ここまでチームをひとり背負ってきた太田も同じで「これで勝った」と思い、おもわずベンチから立ち上がってしまったという。
 しかし、ここで井上は踏みとどまる。4球目のストレートを真ん中やや高めに決め、ワンスリー、ここで立花は自軍のベンチを振り返る。スクイズのサインが出ていないかを確認したのである。
 果たして、三沢ベンチは……。
「最初はスクイズも考えましたよ。そう思ってグラウンドを見ると、松山商のファーストとサードがスクイズに備えた見事な守備態勢をとっている。こりゃ余程うまくやらないことには無理だろうと思い、一球待たせることにしたんです」(三沢・田辺正夫監督)
 井上が投じた5球目は真ん中やや低目に入ってきた。立花は「低い、しめた!」と思った。だが郷司主審のコールはストライク。カウント、ツースリー。後々、物議をかもすことになる“疑惑の一球”である。
 ここで立花は考える。
「まだ押し出しがあるんじゃないかという気持ちとクサいボールが来たら手をださなきゃならないという気持ちが半々だったですね。いずれにしれも1点とったら勝てるわけですから……」
 運命の6球目。井上が渾身の力と精神力を込めて投じたストレートを立花はジャストミートした。快音を発した打球はワンバウンドで井上のグラブを強襲し、ショート樋野和寿の前に転がった。
 立花は打った瞬間「抜けた!」と思った。抜ければ当然サードランナーは生還し、三沢のサヨナラ勝ちとなる。夢にまで見た深紅の大旗をみちのくに持ち帰ることができるのだ。

 ところが……。ファーストベースを駆け抜けてから立花は愕然とする。サードランナーの菊池がホームベースの土ぼこりの中で、うめき声を発しているではないか。
「いったい、なにがあったんだ……」
 立花は脇目も振らずにファーストベースに駆け込んだため、樋野がバックアップしたことに気づいていなかったのだ。
 このシーンを、内野のキーマンでもあったセカンドの福永純一は、まるでスローモーションビデオでもながめるように冷静に見つめていた。
「樋野のところへボールが転がった時点でアウトになるという確信はありましたね。バックホームはちょっと高かったですけどストライクに近い球。これは練習でみっちりやってましたからね。だからそんなには慌てなかった。
 それよりもピッチャーの井上がボールに飛びついたでしょう。これはもう超ファインプレーですよ。彼は2年の一時期、ショートを守っていたことがありましたからね。普通のピッチャーやったら、まず間違いなく抜けていたと思います」
 立花の回想。
「自分ではいい当たりだったと思いますよ。監督から常に“おまえは叩きつけるバッティングをしろ”と言われてましたからね。この時はそのとおりのバッティングができた。あと50センチでも、いや10センチでもズレていれば……。やっぱり運がなかったんでしょうねぇ……」
 サードランナーの菊池は一瞬、スタートを躊躇しながらも、それでもキャッチャーの大森の足元めがけてヘッドスライディングを敢行した。大森のブロックにあったが、自分では左手が先にホームベースに触れたような気がした。しかし、郷司主審のコールはアウト。局面は2死満塁とかわる。

 さて、ここでふたつの疑問に突き当たる。ひとつはゴロであるにもかかわらず、菊池は本塁突入を一瞬、躊躇したのかということ。もうひとつはフォースプレーですむところを、なぜキャッチャーの大森がタッチにいったのかということ。
 まずひとつ目の疑問。
 当事者の菊池は語る。
「井上君がボールに飛びついた瞬間、ライナーに見えた。それで一瞬、立ち止まってしまったんです。はっきりとしたゴロであれば一目散にホームに飛び込んだんですけど……」
 そして監督の田辺も菊池同様、立花の打球をライナーと見誤った。使い古された言葉ではあるが“真の打球”だったのだ。
 ふたつ目の疑問。なぜ大森はタッチにいったのか。
「ホームベースを踏んでいるという確信がなかったので慎重を期したんです」
 と本人は語っている。

 ピッチャー井上とショート樋野の攻守によってアウトカウントをひとつ稼いだものの、しかし、それでもまだ絶体絶命のピンチにはかわりない。
 2死満塁。打席には三沢で最も強打を誇る八重沢憲一が立っていた。
 ノーツーからの3球目、八重沢の打った打球は快音を発して右中間を襲った。その瞬間、ファーストの西本正夫は「これで終わった」と思った。
「外野に飛ぶ打球というのは、打った瞬間どこに行ったかすぐわかるんです。ライナー性の当たりだったので僕は感覚的に完全に抜けたと思ってしまった。だからずっと下を向いていましたよ」
 しかし、ここでまたしても松山商に奇跡が起こる。野手のいないはずの右中間にセンターの田中茂がグラブを構えて立っていたのである。八重沢の打撃フォームとスイングを見た田中は自らの判断で右中間にポジションをとっていたのである。
 後年、太田はしみじみと私にこう語った。
「立花のショートゴロにしろ、八重沢のセンターフライにしろ、もう何センチかずれていればヒットになって終わったわけでしょう。勝負事で負ける時ってのは、そんなものかもしれませんね……」

 延長18回裏、1塁走者の太田が2盗に失敗して球史に残る4時間16分の死闘は幕を閉じた。2塁ベース上でショートの樋野にスパイクした太田は帽子をとって最敬礼。樋野と手をつなぐようにしてホームまでかけてきた。高校野球らしい清々しいフィナーレだった。
 太田は語る。
「僕が樋野君の足をスパイクしてしまったので“ごめん、大丈夫か?”と声をかけたんです。すると樋野君は“ああ大丈夫。何でもないよ”と明るく答えてくれました。これはうれしかった。こんな素晴らしいチームと決勝戦がやれて幸せだと思いました」
 樋野も太田と同じ思いだった。
「敵ながら太田君には好感を持っていましたね。僕が一緒にグラウンドにいて気持ちの通じ合えるような選手でした」
 この歴史的名勝負の取材を、私は今から12、13年前、両校のほとんどの選手、監督に対して行なった。松山と三沢を1カ月おきに交互に訪れた。
 その中で、今でも忘れられないのが、ホームベースにかすかに届かなかった菊池がふと漏らした、次の一言である。
「甲子園の思い出……僕はリポビタンDの味なんですよ。タライの中に氷で冷やされていたリポビタンDを僕は試合中に4、5本は飲んだんじゃないかなァ……。何だかせいたくな気もしたけど、おいしかったァ、あの味は……。三沢は、あんなうまいもの、飲んだことなかったもんなぁ……」

 翌日、再試合。4対2で勝利した松山商が深紅の大旗を四国に持ち帰った。

<この原稿は『1ミリの大河――新スポーツ論』(マガジンハウス、2000年刊)に掲載されたものです>
◎バックナンバーはこちらから