福岡でのレース前、ある記者が中山に問うた。
「(ケガをしていた場合、)中山君なら、どうする?」
 胸を張って中山は答えた。
「僕なら這ってでも出ますよ」
 その時、たまたま私は中山の隣にいた。それが翌日の紙面では、こうなっていたのだ。
「瀬古よ、這ってでも出てこい!」
 確かに、こうした方がセンセーショナルで、対立の図式はより鮮明になる。瀬古不在の大会も盛り上がるだろう。

 しかし、これを読めば瀬古だって面白くはあるまい。口にこそ出さないが「あのヤロー!」という気持ちになっても不思議ではない。
 これに懲りたのか、それ以来、中山はビッグマウスを封印した。瀬古も中山へのコメントを拒んだため、2人には“不仲説”がささやかれるようになった。メディアが2人の仲を裂いたとまでは言わないが、関係悪化のひとつの要因を作ったことは否めない。

 サッカー日本代表前監督のイビチャ・オシムが自著「オシムの言葉」でこう書いている。
「言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある」

 オシムの書いていることは、まさしく正論だ。ジャーナリズムは無謬ではない。

<この原稿は「フィナンシャルジャパン」2010年4月号に掲載されました>
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