山瀬功治といえば日本代表経験もあり、鋭いドリブル突破を武器に相手守備陣を切り裂くアタッカーだ。しかし昨季、そんな山瀬に悲劇が訪れた。それは、チームからの突然の戦力外通告だった。失意の底に落ちた彼は、気持ちを新たに川崎フロンターレと契約。初タイトルを目指すチームとともに逆襲を誓う。
 山瀬はこれまで幾度となく逆境をはね返してきた。新人王を獲得した翌年には、右ヒザ前十字じん帯断裂。その3年後には左ヒザの前十字じん帯も断裂した。それでも彼は、ピッチに帰ってきた。
 絶望の淵から這い上がった山瀬のメンタリティーを、2005年の原稿で振り返る。
<この原稿は2005年7月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 ドリブルがトップスピードに乗った所で相手と接触した。
 左ヒザに激痛が走った。ピッチにうずくまり、右の拳でピッチを叩いた。それは、これまで経験したことのない、ヒザがえぐり取られるような痛みだった。
 昨年9月18日、埼玉スタジアム。当時、浦和レッズのMFとして活躍していた山瀬功治は、そのまま担架で運び出され、病院へと直行した。
 診断の結果は「左ヒザ前十字じん帯断裂」。

 ストッキングを下ろした左ヒザには手術の跡がまだくっきりと残っていた。「ここ(ヒザの下)の部分とこことここ(ヒザの中心部分の前の左右)の部分。メスを入れたのはこの3カ所です。あと、ここ(ヒザの上部)は穴を空けてチューブを入れました。(断裂した部分には)ハムストリング筋を移植しました。僕は右ヒザも手術しているのですが、手術の内容はほとんど同じ。ただ右ヒザの場合は半月板を縫合する手術が加わったので、1カ所傷が多い。違いといったら、そのくらいですね」
 傷の跡を指しながら、山瀬は淡々と話した。
――もう痛みはないですか?
「強い痛みはありません。ただケガをする前より(ヒザは)曲がらないし、そこから無理に曲げようとすると、若干痛みを感じることはあります。
 あとは慣れの問題でしょうね。まだ感覚を研ぎ澄ますと多少の違和感を覚えるので、どう馴染んでいくか。時間が解決すると思っています」

 今季から横浜F・マリノスに移籍した。5月15日の古巣・浦和戦ではDFラインの裏に飛び出す山瀬本来の動きが何度か見られた。
「背番号10」はかつて木村和司や中村俊輔がつけていた横浜における司令塔のシンボル。本人は「背番号でサッカーをやっているわけじゃない」とクールに構えるが、スタンドからは熱い視線が注がれる。
「サイドよりも真ん中の方がやりやすいですね。その意味ではトップ下やボランチの方がいいかな。僕の持ち味はゴール前、もしくはペナルティエリアの前のバイタルエリアで発揮される。
 もちろん、その分、マークはきついし、なかなか前を向けないというデメリットはある。ただ基本的には中央にいて、ある程度、自由に動きたい。
 理想はゴール前のちょっとしたスペースを見つけて、いつの間にかそこにスルスルと入っていくプレー。長い距離を走って裏へと飛び出すというより、バックラインから徐々にビルドアップしていって、ゴールが近づくと、いつの間にかフリーになっているというプレーを心がけたいと思っています」

 札幌市生まれの山瀬の経歴は一風、かわっている。サッカー王国ブラジルに“留学”する選手は珍しくないが、何と彼は小学校卒業と同時に地球の裏側に旅立ったのだ。
 旅立った先は南部のサンベルナルド市。サンパウロ市から車で約1時間の距離にある人口50万人程度の町だ。
――不安はなかったのか?
「う〜ん。不安といっても、ブラジル行きを決めた時はまだ小学生だったので、考える力がなかった。行けるというので、じゃあ行こうかな、という単純な考えしかなかった。でも行ってよかった。留学したのは2年半ですが、日本にいては学べないことを学べた。
 正直に言えば、日本にいても技術的に高いクラブに入れば、ある程度は成長できたと思います。しかしメンタルの部分で成長できていたかどうか。
 向こうではひとりの人間として自立した考えを持っていなくちゃやっていけない。言葉ひとつとっても参考者や辞書に載っているものは実用的ではない。実際にブラジル人の中にポンと入っていって話をしなくちゃコミュニケーションがとれないんです。現地の人しか使わない言葉もありますからね。
 このように日本とは全く違う環境に身を置いたことは自分を成長させるという意味においてよかったと思っています」

 18歳でコンサドーレ札幌に入団した。監督は‘98年のフランスW杯で代表監督を務めた岡田武史氏。山瀬はコンサドーレで3年間プレーした後、浦和に移り、今季から横浜のユニフォームを着ることになった。
 岡田監督とは3年ぶりの再会だった。
「岡田監督ってパッと見ると理論派のイメージですが、実は正反対の面も持っているんです」
 こう前置きして、山瀬は続けた。
「精神的なものをすごく重視する監督ですね。しかも理論のレベルが高い。それでいて複雑ではなくシンプルなんです。選手にしてみれば戦術も理解しやすいし、表現もしやすい」
――難しいことをわかりやすく伝えるのが名監督ですね?
「最低限の約束事は必要ですが、逆にその約束事に縛られ過ぎると、チームからイマジネーションが失われてしまうと思うんです。岡田監督は最低限のルールはつくりますが、あとは自由にやらせてくれる。
 岡田監督には2年間、コンサドーレで指導を受けましたが、これがプロサッカー選手として生きていく僕のベースになっていることは間違いありません」

 残念ながら代表候補になりながらアテネ五輪には出場できなかった。もし五輪に出場していれば父親・功氏はどれだけ喜んだことか。
 というものも功氏は‘84年サラエボ冬季五輪のバイアスロン代表選手。現在も代表のコーチ、スタッフとして強化に尽力している。
 同種目での親子鷹はいるが、父と子が別の種目で五輪に出場したケースは、日本ではこれまで皆無。「(出場していたら)初めてのケースだったんですけどね……」と、少々残念そうな口ぶりで山瀬は言った。
 五輪はかなわなかったが、まだ23歳、ワールドカップは4年に一度、必ず巡ってくる。
「今後の目標は“巧い選手”から“怖い選手”になること。ボールを持ったら、まずドリブルで仕掛けたい。相手から恐れられるプレーを心がけたい」
 二度も絶望の淵を覗いた狼は、いま静かにキバを研ぐ――。
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