東日本大震災を受け、真っ先に被災地への支援を呼びかけたアスリートがいる。エドモントン、ヘルシンキ世界陸上選手権男子400メートルハードル銅メダリストの為末大だ。
 為末はこれまでにも、フィールド外において積極的な活動を行っている。2007年には、陸上競技のPRのために「東京ストリート陸上」を開催。オフィス街・丸の内に特設コースを作った大会は大きな注目を集めた。また、昨年には、資金難に苦しむマイナースポーツ選手をサポートする社団法人「アスリートソサエティ」を設立するなど、アスリートの地位向上に貢献を果たしている。
 そんな為末の競技にかける思いを象徴するレースがある。サムライ・ハードラーが見せた熱き魂の走りを、過去の原稿で振り返ろう。
<この原稿は2008年2月9日号『週刊現代』に掲載されたものです>

 2001年の夏までは、というただし書きが必要である。オリンピック、世界選手権を通じて、陸上のトラック競技で表彰台に上がった日本人男子選手はひとりもいなかった。
 その、いわば難攻不落とも言える城を、初めて攻め落としたのが「サムライ・ハードラー」の異名をとる為末大である。

 01年8月11日。
 カナダ・エドモントン、コモンウェルス・スタジアム。
 第8回世界選手権、男子400メートル障害・決勝。
 為末は2日前の準決勝で48秒10の日本新記録をマークし、日本人としては山崎一彦以来となる2人目のファイナル進出を決めた。
 しかし、セミファイナル(準決勝)とファイナル(決勝)は同じレースでも全く別物といっていい。表彰台、とりわけ金メダルを狙っているような選手はセミファイナルを全力で走ったりはしない。スタミナを温存し、2日後の決勝に備えるのだ。

 一方、表彰台よりもファイナルに進出することを目標としている選手は、ここで全力を尽くさなければならない。12年前の山崎もそうだった。
 スウェーデン・イエーテボリでの世界選手権。準決勝を通過した48秒37というタイムは8人中5位。日本人初のメダルが期待された。
 しかし、ファイナルではセミファイナルほどの力を発揮することができず、8人中7位に沈んだ。これが世界の壁だった。
 レース後、山崎は私にこう語った。
「ファイナルの前の緊張感は味わったものでしかわからない。ここから本当の勝負が始まるのだと思った。それまではリラックスしていた選手たちが人を寄せ付けなくなるんです。残念ながら予選、準決勝を全力で走った僕には決勝での余力が残っていなかった」
 それでも山崎は400メートル障害において日本人初のファイナル進出を果たしたことで、後輩たちに勇気を与えた。もちろん為末もそのひとりだった。

 ファイナルで為末は3レーンに入った。
 まわりを見れば、190センチの長身選手が2人もいた。
 為末の身長は169センチ。背が低く、ストライドも短い為末にとってスタートは何よりも重要だった。
 ところが――。
 反応タイムは8人中、最も遅い0.222秒。明らかに出遅れた。
 世界のハードラーから「サムライ」と畏怖される男にとってもファイナルの緊張感はやはり別物なのか……。
 しかし、ここから為末は巻き返す。徐々にスピードを上げていき、5台目の通過タイムは自身最速の20秒8。スタジアムをどよめきが包む。
 8台目のハードルを8人中、最初に飛び越えた。つまり、400メートルの距離の中で290メートルまで為末は世界のトップにいたのだ。
 あの日、為末は夢の中を走っていた。

 だが、ここで「現実」が為末の背に襲い掛かる。
 9台目でサウジアラビアのアル・ソマイリにトップの座を明け渡すと、最後の10台目ではイタリアのファブリツィオ・モリ、そしてドミニカ共和国のフェリックス・サンチェスにも抜かれ、4位に落ちた。
 残り40メートル。
 前半から飛ばしに飛ばした為末のタンクに、もはやガソリンは残っていないように思われた。
 しかし、ここから為末は信じられないような粘りを発揮する。
 ゴール直前でソマイリをわずかだが、抜き返してみせたのだ。
 為末47秒89、ソマイリ47秒99。
 その差、わずか10分の1秒。
「タンクが空っぽになった先は魂で走る」
執念の力で日本人が夢にまで見た表彰台の一角を掴んでみせたのである。
 ちなみにこの47秒89というタイムは、6年経った今でも日本人には破られていない。

 エドモントンでは23歳だった為末も今年の5月3日には30歳になる。
 年齢から考えて、北京五輪がオリンピックへのラストチャレンジとなる。
「北京五輪はなりふり構わず取り組みたい。個人としてはメダルを目指して走りたい」
 為末にとって北京五輪は、競技に例えれば10台目のハードルである。つまり、ここからが本当の勝負、ここからが彼にとっては本当のレースなのだ。
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