“ミスターマリノス”が、名門復活へ着実に成果をあげつつある。Jリーグの横浜F・マリノスで指揮を執る木村和司は、現役時代、司令塔として活躍し、“ミスターマリノス”と呼ばれた名プレーヤーだ。FKの名手として知られ、日本代表で歴代5位の26得点をあげた。94年に現役を引退、サッカー解説者などを経て、昨年、低迷する古巣マリノスの監督に就任した。2年目の今季は首位の名古屋に勝ち点差3の4位(8月19日現在)につけ、7季ぶりの優勝を目指す。
 日本サッカーの低迷期を支えた木村のプロフェッショナリズムを、Jリーグが誕生する前年の原稿で振り返ろう。
<この原稿は1992年11月号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 Jリーグから発表された正式入場者数は3万4374人。だが、国立競技場はゴール後方の若干の空席を除いては、ほとんど立錐の余地もないように見えた。
 10月3日、Jリーグ・ナビスコカップ第7節、日産横浜マリノス対読売ヴェルディ戦。Jリーグを代表する黄金カードとあって、国立競技場は試合前から異様な熱気に包まれていた。マリノスのトリコロールの旗とヴェルディの緑の旗が、あたかも互いの勢力を誇示するかのようにスタンドを埋め尽くした。それは日本リーグ時代には見られなかった華やかな風景だった。
 先制点を奪ったのは、試合を押し気味に進めるヴェルディ。後半10分、カズ、ラモスとつないだボールを、武田が豪快にボレーでネットに突き刺した。井原、勝矢という2人の日本代表プレーヤーを欠くマリノスにとって、これは重い失点だった。
 ところが、後半26分、木村のコーナーキックを、ルーキーの小村がヘディングでゲット。そしてサドンデスに入った延長の13分、神野の左足シュートがゴールネットを揺らしマリノスが“サヨナラ勝ち”を収めた。木村が右足のアウトサイドで出した絶妙のパスが、決勝ゴールとなって実を結んだのだった。
 マリノスはこの勝利で、対ヴェルディの公式戦連勝記録を11と延ばした。勝利の瞬間、バックスタンドの半分を埋めたトリコロールの旗が、巨大な生き物のようにうねった。黄金カードにまた1つ勝負の伝説が加わった。
「これは、もう1回やれと言われてもできないよね」
 そう前置きして、ベテランらしい落ち着いた口調で木村が試合を振り返った。
「小村へのコーナーキック、あれはここしかないところに飛んだからね。蹴る前、ボールに祈ったよ。頼むから、ここだぞってね。あの1点で流れがかわった。いい時間にとれたから“勝てるな”って気になったね」

 木村和司が、西ドイツ帰りの奥寺康彦に次ぎ、日本人としては2人目(純国産プロとしては初めて)のプロ選手となったのは1986年の夏だった。加茂周監督に「どうせやるならサッカー一本でやりたいんです」と相談したところ「会社としてもバックアップする」という返事が返ってきた。
 資格委員会は、当初ブンデスリーガで9年間プレーした実績を持つ奥寺ひとりをプロとして認める方針だったが、日本代表チームのエースとして国際試合に80試合以上出場していること、アジアオールスターのメンバーに選ばれたことなどが決め手となり、木村のプロ登録が承認された。しかし、全員がプロ契約を結ぶJリーグが設立されるまでにはそれから6年の歳月を待たねばならなかった。
 元号は昭和から平成に変わり、28歳の木村は、34歳のベテランになった。「僕がプロ化への架け橋になれたのはうれしいけど、Jリーグの誕生はちょっと遅かったような気がしますね」
 淡々とした口調で、木村は言った。

 木村がサッカーと出会ったのは、小学4年の時だった。広島市生まれの木村は地元のカープに憧れる野球少年だったが、ある日、誕生したばかりのサッカー部の練習風景を見ていて、居ても立ってもいられなくなってしまう。翌日、入部した。
 6年の時、広島で“神様”ペレのサッカー教室が開催された。仲間たちと参加した木村は、運良く握手をするチャンスに恵まれた。包み込むようなやわらかい手だった。天にも昇る気持ちの木村少年は、感激と興奮で足が震えた。
「だから思うんですよ。Jリーグを成功させないと子供たちに悪いって。もっともっと子供たちに夢を与えないといけない。カネよりもグラウンドのプレーでね」
 自分に言い聞かせるように、34歳のベテランはつぶやいた。

 フリーキックのスペシャリスト――それが木村の代名詞である。学生の頃からペレに代表される外国の一流選手のフリーキックをイメージして、独自の練習を重ねてきた。フリーキックの地点とゴールとの中間にカベを置き、ボールを曲げてそのカベ越しにゴールを狙う練習法も取り入れた。遊び感覚でやれることが気に入っていた。
 忘れられないシーンがある。1985年10月26日、国立競技場。初出場をかけてワールドカップ最終予選の韓国戦で、芸術的なフリーキックを決めたのだ。
 2点ビハインドを背負った前半43分、木村はフリーキックを得た。7人の選手が強固な壁をつくっていた。距離は20数メートルあったが、蹴った瞬間、「これは入った」と確信した。人の壁を越えたボールは、ゴール左上隅に猛スピードで突き刺さった。日本サッカー界の悲願であるワールドカップへの夢が、かすかにつながった瞬間だった。
 だが、日本の抵抗もここまでだった。実力で上回る韓国は、後半、日本に1点も与えず、2−1のまま逃げ切った。
「あの時には、後で悔し涙があふれたね。いつか絶対にこの借りを返す。日本人でもできるんだということを証明したい。そう誓ったことを覚えているよね」

 それから7年――。低迷の日本サッカー界を支えてきた男は、来年5月のJリーグ開幕を前に、今、何を思うのか。
「人気はあるのは結構なことだけど、サッカーで盛り上げていかないとね。今は話題ということでチヤホヤしてくれるけど、いいプレーを見せないとお客さんは自然に離れていくよ。オレも含めて選手は好きなことやってカネもらってるんだから、厳しいのは当然だという覚悟でやらないといけないな。プロに言い訳は許されないんだから」
 年齢に対する不安はないのか。失礼を承知で問う。
「サッカーやってる時は年を感じないね。気持ちでは(若い者に)絶対負けたくないんだ。まあ、チームから要らないといわれるまでは、ボロボロになるまでやりますよ」
 よく陽に焼けた顔に、ベテランらしいニヒルな笑みがこぼれた。


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