女子マラソンは、五輪での上位入賞が期待される種目のひとつです。かつてはバルセロナ五輪の有森裕子選手(銀)からアテネ五輪の野口みずき選手(金)まで4大会連続でメダルを獲得。女子マラソンは日本のお家芸とも呼ばれていました。しかし、前回の北京五輪では中村友梨香選手の13位が最高。連続メダルの襷は途切れてしまいました。ロンドンでは重友梨佐、木崎良子、尾崎好美の3選手が日本勢2大会ぶりのメダルへ、8月5日のレースに臨みます。今回は、日本女子陸上界で初の金メダルに輝いた高橋尚子選手のシドニー五輪での快走を、12年前の原稿より紹介します。
<この原稿は2000年11月の『月刊現代』に掲載されたものです>

 トンネルをくぐると、そこには青空が広がっていた。春というより、初夏を思わせる南半球の強い陽射しが、細身の日本人ランナーの凱旋を待っていた。
 競技場に入り、青い目のランナーの猛追にあいはしたものの、背後を脅かされるというほどのものではなかった。ゴールの瞬間、高橋尚子は両手を高々と突き上げ、9万人近い観客のスタンディング・オベーションにこたえた。

 両腕に日の丸と抱え切れないほどのブーケを抱え、師である小出義雄の姿を探した。
「おーい高橋。よくやったぁ」
 スタンドの通路で小出が叫んだ。叫び声は大歓声にかき消され、高橋の耳には届かない。
「一番最初に監督の顔が見たかった」
 健気にも高橋は言った。
「今会えてよかったです。無事にゴールにたどりつけました。ありがとうございました」
 師弟は熱い抱擁をかわした。
「この今のときに生きていて監督お会いできて本当によかった」
 テレビのインタビューにこたえて高橋は言った。
 プレッシャーはなかったか? という質問には「緊張というより集中してました」とはっきり答えた。そして、続けた。
「(金メダルの)実感はまだありません。途切れることのない声援が私を後押ししてくれました。42.195kmがとても短く感じられました」

 続く記者会見では、こんなことも言った。
「これで目標を果たし、目指すものがなくなった。終わってしまったんだなァ……と思うと、ちょっと寂しいような、ホッとしたような複雑な気持ちです」
 涙はなかった。ケロリとした笑顔が彼女の潜在能力を余すところなく物語っていた。
 勝った者が強い――。
 最強のランナーが勝てるとは限らないのがオリンピックのマラソンだ。だから、42.195kmのレースの勝者を、これまで私たちはそのように称えてきた。
 しかし、シドニーのレースでは、真に強い者が勝った。一番、力のある選手が最大限の力を発揮し、真っ先にゴールテープを切った。しかも、表情には会心の笑みを浮かべて。シドニーの42.195kmは新鮮な息吹と清冽な躍動に染められていた。

 運河を見おろせる小高い丘の上に宿をとった。ホテルの横を通るミラーストリートはマラソンコースになっており、最初の難関とされるハーバーブリッジへとつながる。そこはスタートして1kmから2km地点にあたる。
 数日前の早朝、ジョギングウェアに着がえてこの道に出ると、同宿していたジャーナリストやテレビリポーターたちが、のどをゼエゼエ鳴らしながら試走していた。わずか1kmの区間とはいえ、ジェットコースターのような急勾配を、自らの足で実感しようというわけだ。考えることはみな同じらしい。

 スタートして約100mの地点が海抜90m、ここから急な下り坂が続き、1.5km地点では30mにまで下がる。日経平均株価にたとえるなら、ここで株価は底打ち、ここから3km地点のハーバーブリッジにかけて再びグラフは急激な右肩上がりの図を描く。わかりやすく言えば、1.5km地点がVの字の底の部分にあたるわけである。
 それが大して意味のないこととは知りつつ、どんな体験もしないよりはしておいたほうが多少はマシだろうという甘い考えのもと、私たちは1kmから2kmの区間、すなわちVの字の部分を走った。1kmから1.5kmにかけて、転がるように坂道を下ると、さぁ、そこからは上り坂だ。長年貯め込んだアルコールがヘモグロビンを破壊し尽くしたのか、ここでピタリと足が止まる。ホノルルでフルマラソンを経験したことがあると自慢気に語っていた者ですら、足かせをはめられたように失速し、ハーバーブリッジの手前でヒザを折り、激しく嘔吐した。
 しかし、選手たちにとって本当の勝負は30kmを過ぎてからだ。高低差20m以上の坂を四カ所も乗り切らなければならないのだ。「オリンピック史上最難のコース」と呼ばれる所以がそこにあった。

 9月24日、日曜日。
 天候はくもり。
 気温16度。
 午前9時(現地)スタート。
 スターとともにベルギーのマールレン・レンデルスが飛び出した。その後ろに大きなトップ集団が形成され、日本の高橋尚子、市橋有里、山口衛里らも含まれていた。もちろん優勝候補のテグラ・ロルーペ(ケニア)、リディア・シモン(ルーマニア)、そして前回アトランタ五輪の覇者ファツマ・ロバ(エチオピア)らも集団の中でそれぞれのレースプランを反芻していた。

 いくつかのレース展開が考えられた。タイムだけを比較すれば2時間20分43秒の世界最高記録を持つロルーペと2時間21分47秒の世界歴代2位の記録を持つ高橋尚子が軸となる。マラソンには経験や作戦が必要とはいっても、スピードの絶対値が違えばアップセットを起こすのは難しい。つまり、他のランナーはこのふたりのランナーの仕掛けについていくことが競り勝つ上での前提条件となる。
 では、このふたりのスピードランナーが負けるとすれば、どんな展開か。42.195kmの中で何度か試みるであろう彼女たちのスパートに食い下がり、並走状態を持続しながら、後半の勝負どころで一気に抜き去る――。競馬にたとえて言えば、第4コーナーを回ってからの叩き合いに持ち込むしか方法はない。今回の選手の顔ぶれを見ればリディア・シモンこそが戦術の最高の使い手であり、持ちタイムこそ2時間22分54秒ながら、有力な対抗馬として本命に近い評価を得ていた。

 5km通過のスプリットタイムはレンデルスが16分42秒。その後ろについていた高橋たちは17分00秒。決して速くはない。いや、遅い。7km付近の給水地点で山口衛里が点灯するアクシデントが起きた。高橋はサングラスで顔を隠しているため、表情をうかがえない。
 10kmを通過しても、トップはまだレンデルス。センテニアル公園の風を受け、束ねた髪が揺れる。しかし、後続の集団との差は徐々に縮まり、やがてベルギー人も集団の中の一員となる。なだらかな坂を下りながら、トップ集団はセンテニアル公演からアンザック通りへ。先頭はイタリアのマウラ・ビスコンティ。一路、南へと進路をとる。
 沿道にはユーカリの木々。こぼれ陽の中、驚くほど多くの日の丸が春風になびく。シモンの汗の量が気になる。
 スタートしてから15kmの通過タイムは51分19秒。この付近でロルーペがスローダウンし始める。

 仕掛けたのは高橋だった。18km付近でいきなりペースを上げ15人近い集団を壊しにかかる。ついてきたのは市橋、シモン、キム・チャンオク(朝鮮民主義人民共和国)、エスタ・ワンジロ(ケニア)の4人。しばらくしてキム、ワンジロのふたりが遅れ、トップ集団は高橋、シモン、市橋の3人となる。
 シモンはともかく、市橋がついてきたのは意外だった。彼女の勝負師としての一面を見る思いがした。メダルだけが狙いなら、自らのペースを保ち、3位を確保する作戦に切りかえることができたはず。しかし彼女はオール・オア・ナッシングの賭けに出た。ついていかないことには勝負にならないとの危機感が積極策を選ばせたのだろう。
 しかし、難所といわれたアンザックブリッジの上り坂で高橋が再スパートをかけると、もう彼女の背中を見送るしかなかった。背中は徐々に遠ざかり、あっという間に視界から消えていった。
 かくして29km過ぎからレースは高橋とシモンのマッチレースとなった。前を走る高橋に無言のプレッシャーをかけるかのようにシモンはライバルの背後に身を隠した。

(後編つづく)
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