昨季、大分トリニータはJ26位からの“下剋上”でプレーオフを勝ち抜き、J1復帰を果たした。この立役者は、指揮官の田坂和昭である。現役時代は守備的MFとして、ベルマーレ平塚などで活躍し、日本代表にも選出された。現役引退後はセレッソ大阪、清水エスパルスのコーチなどを経て、11年から大分の監督へ。だが就任当時の大分は、まさにどん底の状態にあった。前年にはJ2に降格。財政難などにより主力選手はチームを離れていった。そんな逆境下でも、田坂はコンバートなどでやり繰りを重ね、見事、クラブを立て直した。
 大分を率いる闘将の熱き魂を、新人王を獲得したばかりの94年当時の原稿で振り返る。
<この原稿は1994年12月号の『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 田坂和昭というサッカー選手の全てを物語るエピソードがある。今年の春のことだ。Jリーグ開幕直後の第2節、対横浜マリノス戦で自軍DFと激しく衝突し、田坂は顔面を骨折した。
 すぐに担架が用意され、田坂はフィールドの外に運び出された。ドクターが「プレー不可能」のサインをベンチに送る。

 と、その時である。うわごとのように田坂が叫びはじめた。
「大丈夫だ。試合に出せ。オレは大丈夫なんだ」
 その剣幕に圧倒され、ベンチは再び田坂をフィールドに送り出した。
 しかし、あまりにも様子がおかしい。なんと敵ではなく味方に向けて突進をはじめたのだ。
「おい、アイツ目が変だよ」
 キャプテンの名塚善寛がベンチに“×印”を出し、再びフィールドの外へ。そのまま有無を言わさずに病院に連れていかれてしまった。
「ディアス……、ディアス……、ディアス……」
 病院に向かう途中、田坂は呪文のようにひとりのプレーヤーの名前を連呼した。
 ラモン・ディアス。この日、田坂がマンマークでついていたマリノスきってのゴールゲッターの名前である。

 田坂は振り返る。
「あの時のことは全く記憶にないんです。あとでビデオを見たら、ドリブルまでしている(笑)。本能でサッカーをやっていたんでしょうね」
 顔面の骨を3カ所も折った田坂はすぐに手術を受け、1週間の入院生活を余儀なくされた。完治までには、ほぼ1カ月。田坂がフェースガードを着用して復帰を果たしたのは第11節のアントラーズ戦だった。

 再び田坂の回想――。
「デビューから2戦目での大ケガ。このままサッカー人生が終わるんじゃないかと思うと不安で不安で……。ポジションだって戻ってきた時あるとは限らない。ケガを忘れるために、ひとりで必死にフィジカル面のトレーニングをやりました。何かやってないと不安だったものだから……。ボールを蹴れない辛さを、この時にはじめて知りました」
 マヒしていた顔面の神経も、ほぼ回復した。つねると痛みを感じるようになってきた。
「それでも、まだ雨の日とかはビリビリするんですよ」
 右の頬をいたわるように撫でながら、田坂はつぶやいた。

 少年の頃からプロサッカー選手になることを夢見ていた。マリノスの木村和司、エスパルスの山田泰寛らを輩出した広島市の大河FCから、サッカーの名門・東海大一(静岡)に進み、東海大時代にはユニバーシアードの代表も経験した。
 Jリーグの最初の公式戦であるナビスコカップが世間の注目を集めたのは3年の秋だった。田坂は何度も競技場に足を運び、Jリーグのレベルをそれとなくリサーチした。
 大学屈指のディフェンシブハーフに、Jリーグからの誘いは引く手あまただった。提示された条件も、決して悪いものではなかった。
 だが、彼が選んだチームは、当時J1(Jリーグの下部リーグ)のベルマーレ平塚だった。田坂自身、「全く考えもしなかったチーム」であった。

 なぜ、進路は突然、変更されたのか。
 田坂は言う。
「ヘッドコーチのニカノールに会ったのがきっかけです。ニカノールの“他のチームに入って3年くらいたってから試合に出ても意味がない。サッカー選手は一番伸びる時期に試合に出ないと成長しないし、代表にも入れない。ウチに入れば、絶対にオマエを伸ばしてやる”というセリフに納得したんです。
 加えてベルマーレは名塚さん、ナラ(名良橋晃)、テル(岩本輝雄)ら高校時代、それほど有名じゃなかった選手が伸びている。これは説得力がありますよ。若いチーム構成にも魅力を感じました」
 昨年、J1を制したベルマーレは、今シーズン、颯爽とJリーグシーンに登場した。しかし、Jリーグの壁は高く、第1ステージは7勝15敗の成績で12チーム中11位。攻撃的サッカーを標榜したはいいが、ザル守備を徹底して狙われ、無駄な失点を重ねていった。

 だが、第2ステージ、ベルマーレは見違えるようなチームに生まれ変わった。中盤の底に陣を張る田坂、エジソンの2人のワイパーが守備網を引き締め、時に攻撃の起点となる役割をも果たした。とりわけ危険なスペースを事前に察知して、未然に消し去る田坂の働きぶりは、他チームの指導者をして「あの判断力は、とても新人とは思えない」と言わしめたものだ。
 惜しくも優勝ヴェルディ川崎に譲ったものの、2位の成績(16勝6敗)は、大方の予想を覆すものだった。

 田坂は語る。
「第2ステージは、先に点をとられても全く負ける気がしなかった。僕とエジソンが安定することで、カウンターをくらうスペースがなくなった。両サイドが上がっても、どちらかがカバーに行けますからね。自分の仕事をちゃんとしていればどこにも負けない。全員、そう思っていたんじゃないでしょうか」
 もっとも、2位という成績に満足しているわけではない。ルーキーながらプロ意識の強い田坂は「2位? プロでやっている以上、勝たなくちゃ仕方ないでしょう」と正面を見据えて言い切った。
 スキンヘッドは自らの意思で選択したものではない。祖父の被爆が原因ではないかと見られている。だが彼の際立った闘志の原点を、そこに結びつけるのは、あまりにも容易というものだ。

 さてディンフェンシブハーフというポジションは攻防のキーを握ると同時に、フィールドの地政学における最重要拠点でもある。
「いかにプレッシャーをかけられるか、いかにいいパスを出せるか。最高にやり甲斐がある仕事です」

 自らのポジションへの情熱を語る若き闘将の素顔に、ささやかなる誇りがにじんでいた。
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