星子のツーベースが出たところで、澤田は2年生投手の新田に代え、3年生の渡部をマウンドに送った。
「キャッチボールしかやってなかったので、びっくりしました」
 接戦でのリリーフは覚悟の上だったが、渡部はできればイニングの頭から行きたいと考えていた。セカンドランナーの存在がズシリと右肩にのしかかった。
<この原稿は『スポーツ名勝負物語』(講談社現代新書)に掲載されたものです>

「しまった、遅れたかぁ」

 ベンチで澤田は舌打ちした。イニングの頭から渡部をマウンドに送るつもりだったからである。なぜ、交代機は遅れたのか。

 10回表、松山商のベンチではこんなやり取りがあった。
「新田、どうじゃ、大丈夫か?」
「はい、行けます!」
 この一言で澤田は新田の続投を決意した。いわば新田の意地に賭けたのである。

 澤田の回想――。
「9回裏、2死から熊本工の1年生、沢村幸明君に同点ホームランを打たれた時、新田は自然にガクッとヒザをついた。本当はあの時点で代えてやっても良かったんです。しかし、ベンチで本人にきくと“まだ行ける”という。これで交代の決断が鈍ったのは事実です。ツーベースの瞬間“しもた! 一手遅れた”と思いましたよ」

 そして、満塁策。
「渡部には細かいことを気にせず、いいリズムで投げさせてやりたかった」
 指示には従ったものの、マウンド上の渡部の脳裡には不安がよぎった。

 渡部の回想――。
「満塁にしたら押し出しのフォアボールで終わることもある。これだけは嫌でした。本音を言えば1人だけ敬遠して、一、三塁で右バッター(坂田光由)と勝負し、内野ゴロでゲッツーとろうと考えていました」
 しかし、2者を敬遠して、3番、左の本多を迎える。初球。ファウルを打たせようとして内角を狙ったスライダーだったという。

 キャッチャー石丸が「暴投か!」と思った矢野の返球は、徐々に失速し始めた。まるで磁石にでも吸い寄せられるかのように、石丸のミットに引き込まれていく。
 サードランナーの星子がホームベースに滑り込むよりも一瞬早く、石丸のミットが星子の肩の部分をタッチした。

「アウト!」
 田中主審の右手が高々と上がった。星子は信じられないような表情を浮かべ、右手でつかんだ土を投げ捨てた。

 石丸は言う。
「返球がちょっとでもズレていたらセーフだったと思います」

 球史に残るプレーを演じたというのに、矢野はすぐに反応しなかった。ファーストの今井康剛の姿がサードランナーに重なり、タッチアウトの瞬間を見損なってしまったのだ。
「今井がはしゃいでいるのを見て、初めてアウトだとわかったんです」

 仲間よりも少し遅れて、矢野は外野の芝の上で飛びはねた。ベンチからはいっせいに“ウォーッ!”というどよめきが上がった。まるで優勝が決まったかのように誰もが肩を叩き合い、声にならない声を発し続けた。

「今思い出すとぞっとするんです」
 ポツリとつぶやき、澤田は続けた。

「もし、あの場面でライトを新田から矢野に代えてなかったら、バックホームどころかフライすら捕れていたかどうかわからない。それに多少の運もあったかもわからない。サードランナーの子が“ボールが直角に落ちてきた”と言ってますが、あれは矢野の肩ができてなかったからだと思うんです。もし、準備万端で出て行ってたなら、そのまま暴投になっていたかもしれない。少なくとも、あんなにボールが失速することはなかったと思います。

 打球が浜風に押し戻されたのも矢野には幸いしました。というのも彼はリズムに乗るのが下手で、何回練習しても捕球するときにステップが合わない。これがセンターの久米あたりだと軽くやってのけるんですが、彼にはできないんです。ところが浜風に押し戻されたことで、後ろから勢いをつけて投げることができた。結果としてダッシュして投げるのと同じかたちになった。これはツイていたと思います」

 新田から渡部への投手交代。矢野のライト起用。そして1死三塁からの満塁策。結果として澤田の采配はすべて的中した。瀬戸際での3つの決断が深紅の大旗へと結びついたのである。

 再び10回裏、無死二塁の場面に話を戻そう。ピッチャーながら左の好打者でもある園村を打席に迎え、澤田は「バントしてくるぞ」とのサインを送った。そして、“左回りのシフト”をとった。セカンドランナーをサードに進める場合、サードにボールを処理させるのがバントの基本である。澤田はそれを見越した上で、ピッチャーが投げると同時にサードの星加逸人を突っ込ませた。練習で嫌というほど繰り返してきたプレーである。

 ショートの深堀祐輔はサードベースに入り、セカンドの吉見はセカンドベースをカバーした。そしてファーストの今井は後ろから、ピッチャーの渡部は正面からファーストベースをカバーするのである。

 澤田には「熊工は100パーセント、バントでくる」との確信があった。その伏線となったのが8回裏無死一塁の場面。2点のビハインドを背負いながら、9番の園村に監督の田中はバントを命じたのである。

「あれで田中監督の野球がわかったような気がしました。2点差があれば、普通の監督さんなら打たせてくる。しかし、田中監督は確実に1点をとりにきた。こういう場合、本当は打ってくれた方がラクなんです。さすがだなと思いましたよ」

 澤田は甲子園大会が始まる前から田中のことが気になっていた。伝統校の監督という理由からではなく、田中の球歴が49人の監督の中では際立っていたからである。社会人野球の日産自動車時代に都市対抗で準優勝、同大会に監督として優勝、そして全日本チーム監督――。

「監督の言うとおりにやれば勝てる。この監督についていけば間違いない」
 田中についてきかれた熊本工ナインたちは口を揃えてそう答えた。

 熊本工ベンチに目をやると、打席の園村に指示を送る田中の姿があった。ファーストが前に出てきたら引っ張れ――澤田の目にはそう指示しているように映った。

「いや、これはダミーだ。必ず送ってくるはず」
 澤田はそのように読んだが、園村のバッティングの巧さを知っているだけに、ファーストの今井を突っ込ませるにはためらいがあった。星加だけを突っ込ませた。2球目、果たして園村のバントは星加の前に転がった。難なくさばいた星加だが、エラーすればサヨナラの場面、ファーストにボールを投げる手がピリピリと震えた。

「ここで暴投でもしたら松山に帰れんと思いましたよ」
 星加は守備に難のある選手だった。サードにゴロが転がれば目をつむるという時期もあった。ところが甲子園にきて、みちがえるように上達した。澤田にはそれがうれしかった。

「まさか甲子園にまできて怒るわけにもいかないので“オマエ。本当にうまくなったぁ”と誉めてやると、気をよくしたのかどんどんうまくなっていくんです。いや、これには驚きました。“ブタもおだてりゃ木に登る”とは、ホント、よくいったものですよ」

 冗談めかして澤田は言った。松山商に奇跡の優勝をもたらしたのは、球史に残る矢野のバックホームだが、10回裏だけでも左中間への打球をツーベースに食い止めたセンター久米のファインプレー、キャッチャー石丸の好ブロック、そしてサード星加の堅実な守備……といくつもの好プレーが飛び出している。

 その点を尋ねると、我が意を得たりとばかりに澤田は語った。

「“攻めの守り”が実を結んだのだと思います。私が口を酸っぱくして言ったのは、守りとは全員がバッターに向かって勝負を挑むことなんだ、9対1で戦うんだから負けることはないんだということです。満塁策にしろバントシフトにしろ、たえず相手にプレッシャーを与え続けたからこそ結果が出たのだと考えています」

(後編へつづく)
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