近鉄バファローズは宮崎県日向市でキャンプを張っていた。小高い丘の上に宿舎があった。
 広報に取材を申し込むと練習後に応じるから、先に来てティールームで待っていてくれという。それはいつものことだった。
 眼下に太平洋を見下ろせるロケーションのいい席を確保した。岸辺に打ち寄せる波頭が南国の早春の日差しを浴びてキラキラと輝いていた。
 1993年2月18日。
 もう今から15年も前のことだ。
 30分も待っただろうか。「遅くなりました」。ペコリと頭を下げて陽に焼けた男がやってきた。
 野茂英雄である。
「調整は順調ですか?」
「ええ、順調です」

 質問にはきちんと答える。しかし、余計な話は一切、口にしない。
 時には「はい」か「いいえ」しか言葉を返さないこともある。記者泣かせの選手といわれていた。
 そんな野茂が私は好きだった。なぜかと聞かれても答えようがない。恋に理由がないのと、それは同じだ。

 初めて彼に長時間に渡ってインタビューしたのは社会人時代の最後の年、近鉄にドラフト1位指名を受けた直後のことだ。
 私の目の前に現れた21歳の青年は薄いグレーの作業服に安全靴という地味な出で立ちで、左胸のポケットには「新日鐵化学(株)野茂」と書かれた何の変哲もないネームプレートが無造作にピンで留められてあった。

 今以上に寡黙だった野茂が唯一、身を乗り出したのがメジャーリーグの話題だった。メジャーリーグといっても、チャーリー・シーン主演の映画『メジャーリーグ』である。
 優勝から見放されていたクリーブランド・インディアンスをモデルにしたこの映画は、国内では89年6月に封切られ、人気を呼んだ。野茂も観たらしい。
「大リーグっていいですね。優勝したら、あんな騒ぎ方をするのかな。僕も近鉄で優勝して映画のラストシーンのように大騒ぎしてみたい」

 野茂は社会人時代、日本代表メンバーとしてソウル五輪に出場している。インターコンチネンタル杯をはじめ、国際大会も相当数、経験している。
「迫力があったのはキューバ。ちょっと粗い面があったけど、とにかくすごかった。全員がフルスイングですから。こちらは息をつくヒマもない。どうすれば、アイツらを抑えられるのか、いつもそればかり考えていました」

 打倒キューバの延長線上にメジャーリーグの世界が広がっていたのは想像に難くない。そして、プロに入って2、3年後には、世界最高峰の野球への挑戦の夢は、もう抑えられないものとなる。あとは、いつ海を渡るか。

 夕焼けが日向灘を照らしていた。
 インタビューの腰を折るように、珍しく野茂のほうから切り出した。
「もう待てないです。メジャーリーグに行きます。アイツらと真剣勝負をしてみたいんです」

 90年と92年、プロに入って2度、日米野球に出場したことで、野茂のメジャーリーグへの興味はいよいよ増していた。
「ロジャー・クレメンスがまた日本で投げるんやったら、僕は自分で切符を買ってでも観に行きたい」
 彼はそうまで言った。

 しかし、当時の日本球界にFA(フリーエージェント)制はまだなかった。<在籍10年、一軍登録1500日>という枠組のみが、経営者側と選手会側双方の妥協案として独り歩きしていた。
 それについて訊ねると、野茂の表情がかすかに曇った。
「いくら何でも10年は長過ぎます。特にピッチャーの場合、寿命が短いから7年後だってどうなるかわからない。この条件じゃ、仮に導入されたところで僕にはまったく意味がない」

 紆余曲折を経てFA制は1993年9月、正式に導入された。
「もしキミが権利を取得すればウチを出るか?」
 球団側の質問に、野茂は「出ます」と明確に答えた。

(後編につづく)

(この原稿は2008年4月号『sportiva』に掲載されたものです)