マエケンは大阪府泉北郡忠岡町で生まれた。だんじりで有名な岸和田市に隣接する小さな町だ。
「気性の激しいところで育ちました。子供の頃はよくケンカもしました。ケンカをして家に帰ると、まず“勝ったか?”と聞かれる。“勝った!”と答えると“よし”。ところが、“負けた”と返事すると“やり返してこんかい!”となるんです(笑)」
(写真:少年時代はサッカーでFWの経験も。カズ、武田のいたヴェルディが好きだった)
――アハハハ。厳しいお父さんだったんだ?
「いや、母親のほうがキツイ。ケンカでも徒競走でも何でも1番じゃなかったら怒られた。もう“最強の母親”でした」
 小学校3年で野球を始めた。中学校からはボーイズリーグに属する忠岡ボーイズへ。マエケンは早くからエースで4番。典型的な野球エリートである。

「甲子園に出るだけなら地方の高校のほうが確率は高いけど、プロを目指すならPL学園だ」
 マエケンはボーイズリーグの監督の勧めもあり、PL学園に進んだ。
 同校を選んだ理由はもうひとつあった。憧れのOB桑田真澄の存在である。
「ピッチングだけではなくバッティングもいいし、フィールティングもそつなくこなす。走塁も巧いし、すべてが揃っている。ああなりたいという思いは子供の頃からありました」

 PL学園の野球部は入学したからといって誰でも入れるわけではない。能力を認められた選手、つまりエリートでなければ基本的に入部が許されないのだ。
 18人の1年生の中でも、マエケンはひときわ目立つ存在だった。語るのはマエケンを3年間指導した同校の前監督・藤原弘介。
「今でもそうですが腕の振りがムチのようにしなって反動で背中に当たりそうなくらい柔らかかった。球速は中2の秋に初めて見た時はさほどでもなかったんですが、高校入学時はもう130km/h台後半が出ていた。
 線が細いので体力面で課題があると思っていたら、ランニングのメニューも先輩に負けずにこなしていた。PLの練習は決して楽ではないので普通の1年生はついていけません。しかし彼は最初からついてきた」

 甲子園には2度出場した。最初は1年生の夏、2度目は3年生の春だ。
 私には忘れられない記憶がある。3年時のセンバツ、準々決勝での秋田商戦だ。2回2死3塁。スルスルッとスタートを切ったマエケンは、そのままホームベースを陥れてしまったのだ。長い間、高校野球を観ているが、あれほど鮮やかなホームスチールは記憶にない。

 ホームスチールは、ただ足が速ければできるというものではない。センスだけでも無理だ。洞察力、観察力に加え、決断力も要る。
「初球を見て“いける”と確信したんです」
 これがホームスチールに対する17歳のコメントだ。

 秋田商のピッチャーはアンダースローということもあり、モーションが大きかった。3塁ベースに立った時からスタートのタイミングを計っていたのである。
「もちろんノーサインですよ。ホームスチールなんて教えられませんから」
 苦笑を浮かべて藤原は言った。

 初戦の真岡工(栃木)戦では毎回の16三振を奪った。打っては不動の4番。投げてよし、打ってよし、走ってよし。「桑田2世」との評価は揺るぎないものとなる。
 しかし、最後の夏は大阪府大会の準々決勝で散った。藤原は準決勝以降の戦いを見越して別の投手を先発マウンドに送った。マエケンは打者として満塁ホームランを放つ活躍をみせたが一歩、及ばなかった。

 自分がヒーローになるはずの甲子園で主役を演じていたのは“ハンカチ王子”こと早稲田実業の斎藤佑樹(現早大)と、“マー君”こと駒大苫小牧の田中将大(現東北楽天)だった。
「悔しくてテレビも観たくなかった。あの試合(早実−駒大苫小牧の決勝、再試合)も最後のほうだけ、ちょっと見たくらい。同級生がたくさん出ているのに、自分はあの場にいられなかった。負けたくないという思いはずっと持っていますから……」

 秋の高校生ドラフトでマエケンは広島から1巡目指名を受けた。マー君は楽天、大嶺祐太は千葉ロッテ、堂上直倫は中日、坂本勇人は巨人。稀に見る当たり年である。
 入団したカープには、もうひとりマエダがいた。言わずと知れた“孤高の天才”前田智徳である。いつしか前田健太はマエケンと呼ばれるようになる。
「高校時代までは“ケンタ”でした。だから最初の頃は(マエケンという呼び方に)抵抗があった。今はファンの人にも親しまれているので、いい呼び名かなと……」

 入団当初はガリガリだった。体重は70kgを切っていた。エースの黒田博樹(現ドジャース)はマエケンの体を見るたびに「もっと食え! 太れ!」と言った。入団1年目はファームで20試合に登板し、5勝8敗、防御率3.99という成績を残す。
 2年目、ガリガリだった体は細いながらもたくましくなった。筋肉の厚みが増し、1軍で9勝(2敗)をマークした。
(写真:理想は60〜70球で完封すること。空振りより見逃し三振のほうが好きという)

 当時、広島の打撃コーチをしていた小早川毅彦もPL学園の出身だ。
「こいつはしっかりしているなぁ……」
 それが後輩に抱いた第一印象だ。
「カープの1軍の寮は三篠にあるんですが老朽化していて誰も風呂に入らない。皆、シャワーで済ませる。
 ところが彼だけは練習後も試合後も湯船にしっかりつかり、疲れをとっていた。おそらく彼は体のメンテナンスのことを考えてそうしていたと思うんです。成功するのはこういう選手です」

 3年目は8勝14敗。大きく負け越したが、先発の柱として1年間、ローテーションを守り通した。
 広島は今季から監督が替わった。マーティ・ブラウン(現楽天監督)から生え抜きの野村謙二郎へ。投手コーチにはアテネ、北京の両五輪で代表コーチも務めた大野豊が就任した。
 叩き上げの大野は投げ込みでフォームをつくり、最優秀防御率のタイトルを2度、セーブ王に2度輝く大投手に成長した。当然のごとく春のキャンプでは投手陣に投げ込みを奨励した。

 しかし、マエケンは投げても70〜80球程度。大野が「もう終わりか?」と訊くと「僕はこの程度でいいんです」と答えた。
 強制しなかった大野も立派だが、自分の意思を貫いたマエケンも立派だ。経験豊富なコーチの意見は貴重だが、すべてが自分に合うわけではない。取捨選択は、あくまでも自分の判断で行わなければならない。それがプロの掟だ。

――“投げ込んでフォームを固める”という慣習が、この国の野球界にはあります。それは間違っている?
「そういうわけじゃありませんが、僕は投げ込まなくても、もうフォームは固まっているという考え方なんです。一応、プロ野球選手なので(笑)。12月と1月、たった2カ月ピッチングをしなかったくらいでフォームを忘れるようなら、(そういう選手は)プロじゃないと思います」

 ――日本には“プロ失格の選手”がたくさんいる?
「他の人のことはわかりませんんが、僕は小学校からずっと野球をやってきてキャッチボールもピッチングも欠かしたことがない。いまさら肩のスタミナをつけなくても充分、備わっている。
 だからキャンプでは肩をつくるためではなく、感覚を取り戻すために投げるんです。変化球の感覚だって2、3日ピッチングすれば普通に戻ります。
 だから僕は投げ込みは必要ないという考えです。肩は消耗品。調整は70球か80球あれば大丈夫です」

 仮に自分が正しいと思っていても、ここまでハッキリ本心を口にできる選手は少ない。同類として思い出すのはピッチャーでは工藤公康、桑田真澄、野茂英雄、松坂大輔、そしてダルビッシュ有……。
 先輩の橋本がこうフォローする。
「普通、指導者が替われば多少なりとも若い選手は合わせようとするものなんです。頭の中では“イヤだな”と思っていても好かれないと使ってもらえなくなりますから。
 でも彼はブレない。投げ込みの球数についても“オマエ、よくコーチにはっきり言えたな”と言ったら、“僕はそれできたんです”とはっきり口にしましたよ」

 オールスターの初戦が終わった後、ダルビッシュに誘われ、福岡で食事した。実はダルビッシュ、チームこそ異なるがボーイズリーグの2年先輩にあたる。そのスケールの大きさに圧倒された記憶がある。
「ダルビッシュさんの話は今まで聞いたことのないものばかり。たとえば、真っすぐでも伸びのあるのと、そうでないのとを投げ分けられるというんです。
 変化球もそう。バッターの手元で曲がるのと、遠くで曲がるのとは投げ分けられると。もう次元が違うんです。そのためにはどういうトレーニングをすればいいか、腕の振りはどうするか、(ボールの)握りはどうするか……。聞いていて勉強になることばかりでした」

 プロ野球はルネッサンスの時代を迎えている。野心的ではあるが野暮ではなく、頑固ではないが安易な妥協を嫌う、しなやかでしたたかな若者たちの群れ。そのど真ん中にマエケンはいる。

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<この原稿は2010年9月4日号『週刊現代』に掲載されたものです>