野球は審判の存在なくしては成立しないスポーツである。つまり、野球の歴史は、そのまま審判の歴史と言い換えることもできる。元セ・リーグ審判部長の富沢宏哉は、1955年にプロの審判に採用されて以降、45年間で3776試合を裁いた。その中には1959年の天覧試合や、77年に王貞治がメジャーリーグ記録を上回る756号本塁打を放った試合など球史に残る一戦も含まれている。日本シリーズやオールスターゲームの大舞台も数多く経験した富沢が考える“いい審判”の条件とは何か、二宮清純が訊ねた。
二宮: 富沢さんが考える「審判に必要な要素」とは何でしょう?
富沢: 何より必要なことは3つあるね。まず「忘れること」。ひとつひとつのプレーを覚えていては絶対にいかん。だって、「さっきのストライクだったな。ストライクなのにボールに入れちゃったな」って覚えていると、次に打席が巡ってきた時に「さっきコイツを三振にさせちゃったな」って思う。これでは目の前のプレーに対して正しい判断ができないから絶対にダメです。この点で私は適性があったんですよ。あの天覧試合にしても、誰がどう打ったかなんて全く覚えてない(笑)。

二宮: では2つ目は?
富沢: 「立つこと」。当たり前かもしれないけど、プレーボールからゲームセットまで、審判は座って休むことはできないからね。私は小学校時代から立つことだけは人一倍やらされた。学校の廊下を走ったり、ケンカをしたりして、よくバケツ持って立たされたから(笑)。

二宮: いわゆるヤンチャ坊主だったんですね(笑)。スポーツは得意だったんですか?
富沢: 野球をやっていたけど、ヘタクソだった。まぁ、“ライパチ”ならぬ“ライトのシックスティーン”。昔はよく下手な選手のことを、ライトで8番に入るから“ライパチ”って呼んだでしょう。私の場合は、それより倍、ヘタだったってこと(笑)。だから審判になったんだ。

二宮: 審判を始めたのは?
富沢: 高校を出て、社会人の都市対抗野球の審判をやらせてもらった。19歳の頃だね。昔の川崎球場のこけら落としゲームでも球審を務めたことがある。それが、この道に進んだきっかけです。

二宮: 話を戻して、審判に必要な要素の3つ目は?
富沢: 「忘れること」「立つこと」ときて、最後は「せっかちではないこと」。でも、私はせっかちだったから、アンパイアとしては最も悪い性格だった(笑)。
 たとえば、田淵(幸一)がショートゴロ打ったとします。“田淵は足も速くないし、これはアウトに決まってる”。そう思い込んで、最初から手を挙げちゃう(アウトのジェスチャーをする)とダメなんですよ。実際にアウトかセーフかはボールが一塁に到達するまでは分からない。ボールが早く到達すればアウト、遅く到達すればセーフ。これがルールです。
 でも私はせっかちだから、最後まで見極めないでジャッジをしそうになってしまう。これでは審判としてやっていけない。どうしたらいいかと考えたんです。

二宮: どのように「せっかち」な性格を克服したのでしょうか?
富沢: もう1人の“富沢”をグラウンドに連れて行ってたんですよ。それを自分の隣に置いておく。そして、たとえば田淵がショートゴロを打った場面でも、最後までずっと見て、一塁手のミットにボールがバーンと入った段階で、隣の“富沢”に「今、ボールが到達するほうが早かったな?」って聞くんです。そして、隣の“富沢”が「うん、早かった」と言うのを確認してから「アウト!」とコールする。

二宮: なるほど。客観的な自分をもう1人置いておくと。
富沢: こうすると正しいジャッジにつながるだけでなく、いいタイミングでコールできるようになる。当時の島秀之助審判部長も若い審判に「ジャッジのタイミングは富沢に倣え」って言っていたそうです。

二宮: もうひとりの“富沢”を隣に置くアイデアはどうやって思いついたんですか?
富沢: ヒントは電車の車掌だね。プロの審判になってすぐの頃だったかな。球場へ電車で向かっている時にホームで車掌を見ると、ドアを開けたり閉めたりする際に「ドアが閉まります」とか自分に言い聞かせながらやっている。その時に「これだ」と思ったね。野球がヘタクソなのにプロの審判になったわけだから、自分に役立つものであれば何でも参考にしたよ。

二宮: 今の若い審判にアドバイスするとしたら?
富沢: 今の審判はうまいよ。私たちの頃よりうまい(苦笑)。欲を言えば、もう少し個性豊かにやってほしい。昔は遠くからでもパッと見れば、今日は誰が球審か分かったものです。
 それから若い審判にはよく「どうしたら正しいジャッジができますか?」と聞かれるんだけど、私はこうアドバイスしています。「つま先をしっかり向けてジャッジしろ」と。

二宮: つま先を向ける?
富沢: だって、女性を口説く時の姿勢を見たら、絶対、つま先は女性のほうを向いているはずです。奥さんにプレゼントするダイヤモンドの指輪を買う時だって、つま先は真っすぐ店員に向かっているでしょう? 大事な時には人間、必ずつま先を向けて行動する。
 これは球場でカメラマンに教わったんです。「写真を撮る時は、まず撮りたいものに向かってしっかりつま先を向けるんですよ」って。それなら審判のジャッジも一緒でしょう。プレーに対して、しっかりつま先を向けて判定を下す。それは体の正面をしっかり向けてプレーを見ることにつながる。まず姿勢がしっかりしていないと、正しいジャッジはできませんよ。

<現在発売中の『文藝春秋』2011年9月号では「プロ野球伝説の検証」と題し、富沢さん、元巨人・広岡達朗さん、元阪神・吉田義男さんらの証言も交えて天覧試合の真相に迫っています。こちらも併せてご覧ください>