“地獄”から“天国”へ――。89年の歴史をもつ「東京箱根間往復大学駅伝」(箱根駅伝)は今や、年始の風物詩となっている。今年1月、その箱根を制したのは日本体育大学だった。昨年は同校としては史上最低の19位。まさに“地獄”を味わった。そこから大改革に乗り出し、30年ぶり10度目の栄冠を手にしたのだ。この原動力のひとつとなったのが、同校OBでもあるコンディショニングトレーナー原健介が提唱した「ベース・コントロール・トレーニング」(BCT)だ。いかなる時も崩れない走りをつくりあげたBCTとは――。古豪復活への軌跡を辿る。
「もう悔しくて、悔しくて仕方ありませんでした」――奥歯をかみしめながら、そう語る原の表情は、当時の悔しさがどれほどだったかを物語っていた。
 2012年1月の第88回箱根駅伝。過去9度の優勝を誇る日体大は、その輝かしい歴史に暗い影を落とした。7区のゴール地点であり、8区のスタート地点である戸塚中継所で同校初の繰り上げスタート。初出場した1949年以来、64年間つないできた同校のたすきが途切れた瞬間だった。

「なんだか日体大のランナーは、走りに力強さがなくて、フラフラしていた感じがしたよ」
 レース後、OBや関係者など、周囲からは一様にこうした言葉が漏れた。それを聞いて、ひとり悔しさを募らせていたのが原だった。
「テレビではほんの少ししか映らなかったのですが、やっと映ったと思ったら、みんなもう軸がブレて、ボロボロにフォームが崩れていました。誰もが強く印象に残るほど、ひどいものでした。その時、思ったんです。『よし、身体づくりからやろう』って」
 その決心は日を追うごとに強くなっていった。

 箱根駅伝が終わると、チームはいったん解散をし、選手たちはそれぞれの実家へと帰省する。また、多くのスポーツがシーズンオフのため、原が開業している治療院を訪れる患者も比較的少ない。そのため、原にとっては1年の内、最もゆったりと過ごすことができる時期でもある。だが、既に原は動き始めていた。患者のいない時間帯をほぼすべてトレーニングに費やし、自らの身体を実験台にして効率のいいメニューづくりに勤しんだ。そうしてできあがったのがBCTだ。

「学生時代を含めて20年近く、日体大駅伝部に携わってきましたが、19位に終わった昨年は、これまでで一番悔しいと思ったんです。今でも不思議なんですが、とにかく悔しくて、悔しくて……。いつもなら他校に対して“やっぱりすごいなぁ”“悔しいけど、素晴らしい走りだったな”という感じなのに、その時ばかりは憎たらしいとさえ思いました。『絶対に、1年後は雪辱する!』と、選手でもない僕が燃えてしまったんです(笑)」

 改革へのプロローグ

 実は原にとって、BCTを確立させることは、リベンジでもあった。BCTとは、つまりは体幹トレーニングのことである。身体の基礎(ベース)となる部分をしっかりとつくりあげ、正確な動きができるようにコントロールするというもの。今やスポーツ界の常識となっている体幹トレーニングを原流にアレンジしたものがBCTなのだ。

 そしてそれは、学校の長距離界に蔓延しているトレーニングの考え方に異論を唱えるものでもあった。小学校、中学校、高校、大学と、学校のクラブ活動における長距離チームのメニューは、“走る”という行為ばかりに重きが置かれ、今やほとんどの競技において重視されている体幹トレーニングは“補強”としてしか行なわれていないのだという。

「他競技ではウォーミングアップの段階から体幹トレーニングを入れていますよね。同じ走る種目の短距離でも、既に取り入れられています。でも、長距離はあくまでも“補強”という発想でしかなかったんです」
 それは、日体大においても然りだった。

 3、4年前、原は一度、日体大駅伝部の別府健至監督に、練習前の体幹トレーニングを提案したことがある。だが、行なわれたのはただの1度きり。単なるお試しで終わってしまった。
「当時はある程度の結果を残すことができていましたから、別府監督も何かを変えたり加えたりすることの必要性を感じていなかったのだと思います。1回やって、『あとは、やりたい人はやってみて』という程度で終わってしまいました。続けてやった選手はほとんどいませんでしたね」
 今回はその時以来の提案だった。だからこそ原は、きちんと確立したものを提示したかったのだ。19位に沈んだ屈辱のレース後、約1カ月の間、試行錯誤の日々が続いた。

 そして2月、1年後の雪辱に向けたスタッフミーティングが行なわれた。話し合いの中で、まず最初に出たのは「別府監督が選手たちに課している練習は決して間違ってはいない」ということだった。原はこう別府監督に語った。
「僕も監督のやり方は間違ってはいないと思います。ただ、それは選手たちが監督の出したメニューを遂行して初めて言えることではないでしょうか。昨年のようにポロポロと何人もケガ人を出していたら、いくらいいメニューでも強くはなりません」

 それを聞いて「確かに、そうやな」と大きくうなづく別府監督に、原は続けてこう言った。
「僕に監督の練習メニューが遂行できる身体づくりをさせてください」
 原は1カ月もの間、練りに練ったメニューの内容と効果を別府監督らスタッフに説明をした。ひと通りの説明が終わった時、別府監督はこう言った。「よし、それでいこう」。原のプレゼンテーションは大成功に終わった。そして、日体大駅伝部の改革が始まったのである。

(後編につづく)

原健介(はら・けんすけ)
1970年10月6日、新潟県生まれ。日本体育大学卒業後、日本理療専門学校で、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の資格を取得。2009年、横浜市に「はら治療院」を開業した。学生時代からトレーナーとして陸上部員のケアを担当。別府健至監督が就任した99年からチームの治療を始め、昨春からはコンディショニングトレーナーとしてBCTを指導している。

(文・写真/斎藤寿子)
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