阿部慎之助(巨人)、小川泰弘(東京ヤクルト)、増渕竜義(北海道日本ハム)……今では何人ものプロ野球選手から信頼されるトレーナーとして日々、治療を行なっている岩田雄樹。その仕事ぶりは、想像以上に繊細である。プロ野球選手の場合、1人に要する治療時間は約2時間。岩田は「1日3人が限界」と言う。それだけ1人1人に対して、心身ともに全力で治療を行なうからだ。トレーナーとして歩み始めて14年。今や7人の弟子をもつ岩田だが、「こんなに長く続けることになるとは思ってもみなかった」という。実は、辞めようと思っていた矢先、岩田はひとりの高校球児と出会った。彼から言われたひと言が、岩田の心を突き動かしたのである――。
「このピッチャーが、本当にすごいのかなぁ……」 これが2005年から創価大学野球部の専属トレーナーを務める岩田雄樹が、小川泰弘(東京ヤクルト)に持った最初の印象だった。 「小川を知ったのは、彼が創価大学に入学してからのことです。周りから『今年入った1年の小川というピッチャー、なかなかいいですよ』という話は聞いていました。実際に会ったのは1年の冬だったかな。正直、体は小さいし、あまり話さないので、印象は薄いものでした。とてもプロで新人王を獲るような選手には見えなかった。その頃は正直、プロに行けるとも思っていなかったですね」 しかしその印象は、すぐに覆された――。
チームに日本代表クラスの選手を多く抱え、自らも日本代表コーチとして2008年北京、12年ロンドンと2大会連続で五輪に帯同した加藤裕之。彼が指導者としてのスタートを切ったのは、現役引退を表明した翌年、1993年のことだ。20年以上の指導者人生を振り返り、「若い頃とは指導の仕方は変わった」と語る加藤。果たして、指導方針はどう変化したのか。
いったい、この男はどこまで強くなるのだろうか――。昨年の世界選手権で個人総合5連覇を達成し、2008年の全日本選手権以降、12年ロンドン五輪も含め、個人総合では負け知らずの31連勝。世界体操界の歴史にその名を刻み続けているのが、内村航平である。彼が所属するコナミスポーツクラブ体操競技部の監督であり、北京、ロンドンと2大会連続で五輪日本代表コーチを務めた加藤裕之はこう言う。 「航平こそ、歴代の世界最強の選手ですよ」 07年のユニバーシアードから日の丸を背負って演技する内村を見てきた加藤に、内村の強さの所以を訊いた。
「何としてでも、オリンピックに行きたい」。13年前、単身で渡った米国の地で、川北元はそう心に誓いながら、毎日自転車を漕ぎ、さまざまな指導者の元を訪れていた。 「当時は、将来なんてまったく見えていませんでした。でも、とにかくいい指導者になりたいという思いだけで、走り回っていましたね。そして、指導者としてオリンピックに行きたいと思っていました。だから毎日、“どうやったら、あの場に行けるほどの指導ができるようになるんだろう”ということばかり考えていました」 その頃は何の伝手ももたなかった川北は、いい指導者と聞けば、その場に足を運び、どんな指導をしているのかを勉強させてほしいと直談判したという。川北の指導者への道は、まさにゼロからのスタートだったのである。
全日本女子バレーボールチームは、2012年ロンドン五輪で28年ぶりの表彰台となる銅メダルを獲得した。しかし、それは道半ばに過ぎない。なぜなら、全日本女子が目指しているのは、1976年モントリオール五輪以来となる、金メダルだからだ。 ロンドンから約2年。この間、全日本女子は常に進化し続けてきた。昨年のワールドグランドチャンピオンズカップ(グラチャン)で披露されたのは、ミドルブロッカーを通常の2枚から1枚にした「MB1」。さらに今年、その進化系として世界を驚かせたのが「ハイブリッド6」だ。果たして「ハイブリッド6」とは、どんなシステムなのか。そして、それによって全日本女子が目指すバレーボールとは――。戦術・戦略コーチを務める川北元に訊いた。
「好き勝手」――バスケットボール国際審判員である須黒祥子の座右の銘だ。これは須黒が最も影響を受け、恩師として尊敬している、元国際審判員の柚木知郎からの訓えだという。 「私がまだ審判員として駆け出しの頃、柚木さんに言われたんです。『コートの上では好き勝手にやればいいんだよ。こうしたら誰かに何か言われるとか、文句を言われるとか思いながら笛を吹いたら、オマエがコートに立っている意味がないだろう』って」 須黒が柚木の言葉を座右の銘としている背景には、過去の「反省」がある。
今や日本のバスケットボール界で、彼女の名を知らない者はいないと言っても過言ではないだろう。日本人女性において国際審判員第1号の須黒祥子だ。これまで何度も国際大会で笛を吹き、その経験値を買われて2012年ロンドン五輪の審判員にも抜擢されるほどの腕前をもつ。そんな須黒が、初めて公式戦での国際舞台として笛を吹いたのが、04年アテネ五輪だった。当時は国際大会未経験の自分が選ばれた理由も、審判員としての自信もなかった須黒には不安しかなく、実際何もできなかったという思いしか残らなかったという。選ばれし審判員しか知ることのできない、もうひとつの五輪の舞台がそこにはあった――。
今や世界のトップ選手の仲間入りを果たした錦織圭。彼が1試合にストリング張りを依頼するラケットの数は6、7本。多い時には9本出すこともある。さらにオンコートの数も少なくなく、ストリング張りの本数もまた世界トップだという。そんな錦織だが、かつては最も少ない部類に入っていた。彼がラケットへの意識を高め、本数を増やし始めたのは、ストリンガー細谷理のあるひと言がきっかけだった。
「飛ぶ鳥落とす勢い」とはこのことを言うのだろう。今夏のテニス全米オープンで、日本人としてグランドスラム初の決勝進出を果たした錦織圭は、約2週間後のマレーシア・オープンでツアー5勝目を挙げた。さらに休む間もなく出場した楽天ジャパン・オープンでも、2年ぶり2度目の優勝を果たした。3大会連続でファイナリストとなり、世界ランキングは全米前の11位から、6位(13日現在)にまで浮上。トップ8のみに出場が許される11月のツアー・ファイナル出場も現実味を帯びてきた。その錦織のプレーをアマチュア時代から陰で支えてきたひとりが、ストリンガー・細谷理だ。
「これまでいろいろな競技のトレーニングを見てきましたが、平井(伯昌)先生のようなコーチは皆無に等しいですよ」 北島康介をはじめとする世界のトップスイマーを育ててきた平井に対し、トレーニング指導員の田村尚之は尊敬の念を抱いている。それはトレーニングに対する平井の驚くほどの熱心ぶりにあった。 「コーチは毎日、選手ひとりひとりの練習プログラムをつくらなければいけません。ふつうはそれだけで精一杯のはずなんです。ところが、平井先生は睡眠時間を削り、プログラム作成の時間をスライドさせてまで、トレーニングの時間も選手に付き添う。今は大学の仕事もあってなかなか来られなくなりましたが、以前は毎回トレーニングルームに顔を出していましたよ」 そんな研究熱心な平井の存在があったからこそ、競泳界ではタブーであったウエイトトレーニングの成果が競泳に結びつき、北島らメダリストが誕生した。田村はそう考えている。
近年、日本の競泳界において、スーパースターといえば、やはりこの人以外にいないだろう。アテネ五輪、北京五輪と2大会連続で2冠を達成した北島康介である。そして今や日本競泳界の名将ともなっている平井伯昌コーチが、まだ無名だった北島を発掘し、金メダリストにまで育て上げたことは周知の通りだ。その平井コーチがひと昔前まで日本の競泳界ではタブーとされてきたウエイトトレーニングを本格的に指導に取り入れたのは2001年のことだ。そして北京五輪までの約7年間、平井と苦楽をともにして北島の身体をつくりあげてきたのが、国立スポーツ科学センター(JISS)のトレーニング指導員、田村尚之だった。
「Be you(君らしくあれ)」――フルタイムレフリー平林泰三が、今も大事にしている言葉だ。平林にこの言葉を贈ったのは、世界トップ3のレフリーとして長年君臨したニュージーランド人のコリン・ホークだ。 「当時、レフリーマネージャーだったコリンさんに、そう言われたんです。『人のまねをする必要もないし、特に気を遣う必要もない。君は君らしくいなさい』と。レベルが高くなればなるほど、レフリーの世界も厳しくなる。だから最終的には人がどうとかではなく、自分自身を持っていないとダメなんだ、ということを教わったんです」 アジア人初のフルタイムレフリーとなって、まだ1年にも満たない頃のことだった。
日本ラグビー界に新風を巻き起こし続けている男がいる。日本で、そしてアジアでフルタイム(プロ)レフリー第1号となった平林泰三だ。彼のレフリー経歴は、まさに華麗である。18歳でC級ライセンス、31歳でインターナショナルマッチを担当することができるA級ライセンスと、いずれも国内では最年少での資格取得を実現。さらに31歳でU−19W杯、翌年にはU−21W杯でレフリーを務めた平林は、世界でも高い評価を得て、2007年3月には念願であった120年以上の歴史を誇る欧州6カ国対抗戦でのタッチジャッジ(線審)に抜擢された。これらすべて、アジア人初の快挙である。今や世界に活躍の場を広げ、日本ラグビーの発展にも寄与する平林。アジアではフルタイムレフリーのパイオニア的存在である彼が追い求めるレフリングとは――。
試合本番に向けてのコンディショニングと聞くと、すぐに思い浮かぶのがフィジカル的要素であろう。疲労を残さず、いかに万全な状態へともっていくことができるか、と考えるのが一般的だ。だが、実はここで忘れてならないことがある。メンタル的要素だ。なぜなら、「身体と心はつながっている」からである。
今春、日本陸上界において、前人未到の大記録を2度もうちたてた男がいる。十種競技の右代啓祐だ。4月に和歌山で開催された日本選抜陸上和歌山大会では、自身が持つ日本記録を70点更新する8143点をマーク。さらに右代は、6月に長野で行なわれた日本選手権混成で8308点を叩き出した。彼が日本新を出したのは実に3年ぶりのことだ。それも短期間に立て続けの記録更新である。周囲が驚いたのも無理はない。27歳の今、なぜ右代は進化し始めたのか――。きっかけは、2010年から右代の専属トレーナーを務める中西靖にあった。
「負けん気の強さで言ったら、2人はそっくりですよ」。竹村吉昭が語る「2人」とは、2年後のリオデジャネイロ五輪で活躍が期待される渡部香生子、そして2000年シドニー五輪で銀メダルを獲得した中村真衣だ。小学6年から15年間、中村を指導した竹村。アトランタ、シドニーと2大会連続で五輪出場に導き、メダリストにまで育て上げたその功績は大きい。だが、竹村にはたったひとつだけ、後悔に近い思いがある。 「あの時、もし中村にたった一言、アドバイスをしていたら……」 シドニー五輪の決勝を振り返るたびに、そんな思いがふと沸き起こってくるのだ。
今年4月に行なわれた競泳日本選手権。そこには1年前とは違う表情の渡部香生子がいた。15歳でロンドン五輪(2012年)に出場した渡部は、4年後のリオデジャネイロ五輪でのメダル獲得に大きな期待が寄せられている。しかし、昨年の日本選手権では五輪で出場した200メートル平泳ぎでまさかの予選落ちをし、周囲を驚かせた。そんな渡部が今年は一転、100メートルと200メートルの平泳ぎ、200メートル個人メドレーの3冠に輝いた。特に、平泳ぎはともに高校新をマークしての初制覇。ロンドン五輪メダリストの鈴木聡美をおさえての価値ある優勝に、「渡部時代の到来」もささやかれている。その渡部の躍進を語るうえで欠かすことのできない人物がいる。竹村吉昭コーチだ。
「六大学の審判員をやってくれないか」 早稲田大学野球部の先輩からそう言われたのは、林清一が31歳の時だった。早稲田実業高校、早大、大昭和製紙と野球を続けてきた林だったが、きっぱりと野球から身を引き、家業を継ごうと東京に戻ってきた矢先のことだった。一度は断ったものの、「やってみるか」と軽い気持ちで引き受けた。その時はまさか、27年も続けることになるとは……。そして審判がいかに激務であるか、まったく予想していなかったのである。
「私たちはルールの番人ですから」。詰め寄る記者に、審判委員幹事(当時)の三宅享次は、落ち着き払った態度でそう言い切った。その言葉に、隣席の林清一も深くうなずいた――。 1998年8月16日、第80回全国高校野球選手権大会。第11日第2試合、2回戦の宇部商(山口)−豊田大谷(愛知)の試合後、甲子園史上初の“延長サヨナラボーク”宣告をした球審・林のジャッジが物議を醸した。翌日、スポーツ紙の一面には林の顔と名前が掲載され、高校野球連盟には林への抗議の電話が殺到した。だが、それでも自らが行なったジャッジに、林の気持ちが揺らぐことはなかった。そこには、審判員としての信念があった。
日本男子卓球界で昨年、最も飛躍した選手が2人いる。27歳の塩野真人と、次期エースの呼び声高い23歳の松平健太である。特に周囲を驚かせたのは、塩野である。それまで全日本選手権でのベスト16が最高成績だった塩野は、国際大会では1勝も挙げていなかった。そんな塩野が、昨年はワールドツアーで2勝を挙げる活躍を見せた。188位だった世界ランキングは、今や26位にまで上がっている(4月4日現在)。この塩野の快進撃の要因を語るのに、欠かすことのできない人物がいる。2010年から卓球男子日本代表のフィジカルコーチを務める田中礼人だ。
「フィジカル強化の必要性」――2001年から12年ロンドンオリンピックまで卓球日本男子ナショナルチームの監督を務めていた宮義仁(現「2020ターゲットエイジ育成・強化プロジェクト(タレント発掘・育成コンソーシアム)」コーディネーター)のレポートによく出てきた言葉だ。 「世界選手権やアジア大会など、毎年国際大会を戦う中で、大会後の反省文に毎回出てくるワードが、“フィジカル強化”でした。卓球は、一瞬のパワーを何度も出さなければならない。しかし、日本人選手は俊敏性はあっても、一瞬のパワーを出し続ける体力がなかった。卓球に見合ったフィジカルを身につけなければ、世界に太刀打ちはできないと感じていたんです」 そこで、宮は協会に専属のフィジカルコーチ採用の必要性を訴えた。協会もそれに賛同し、10年4月、3カ月の研修を経て代表初の専属フィジカルコーチが誕生した。それが、田中礼人である。
9日間にわたって熱戦が繰り広げられたソチパラリンピック。日本選手団は金3、銀1、銅2の計6個のメダルを獲得した。パラリンピックはオリンピック同様、4年に一度の大舞台、そして厳しい勝負の世界だ。メダル獲得に喜ぶ選手がいる一方で、悔しい結果に終わった選手もいる。アルペンスキー立位カテゴリーの小池岳太もそのひとりだろう。滑降と回転は途中棄権。スーパー大回転と大回転は9位。スーパー複合は10位。表彰台を目指していた小池にとって、決して納得のいく結果ではなかったはずだ。しかし、スキーブーツチューンナッパー広瀬勇人の小池への期待は少しも薄らいではいない。「岳太への期待は今にとどまらず、まだまだこれから」と可能性を感じているからだ。そこには、チューンナッパーだからこその視点がある。
「なるほど……」。15年間、スキーブーツのチューンナップを手掛けてきた広瀬勇人の言葉を聞いて、はたとヒザを打った。スキー競技において、“チューンナップ”と言えば、おそらく大半の人がスキー板のことを想像するだろう。しかし、何か忘れていはしまいか。スキーヤーの身体とスキー板をつなげているもの――そう、スキーブーツである。このブーツにおけるチューンナップを重視する日本人スキーヤーはそう多くはいない。だが、広瀬は言う。「スキーヤーの能力とスキー板の性能を引き出すのがスキーブーツ」だと。たかがブーツではないのだ。
17日間にわたって熱戦が繰り広げられたソチオリンピックが、23日(現地時間)に幕を閉じた。1998年長野大会を除く、国外開催のオリンピックでは初の出場を果たした“スマイルジャパン”ことアイスホッケー女子日本代表は、通算5戦全敗で最下位に終わった。しかし、下を向いている暇はない。最後の7、8位決定戦でのドイツ戦、試合終了の合図は、ソチ大会の終わりを告げるとともに、4年後のスタートを切る合図でもあったはずだ。そして、それはレフェリー中山美幸にとっても、同様である。4年後を見据えた戦いは、既に始まっているのだ。