プレミアリーグ(イングランド・プレミアリーグ)の外国人オーナーにイエローカードが提示された。
 8月1日、プレミアリーグの名門クラブであるマンチェスター・シティを買収した元タイ首相のタクシン・シナワット氏が、米国の人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチから、首相在任中の深刻な人権侵害を理由に同クラブの所有は不適切であるとの指摘を受けたのだ。

 同団体は7月末にプレミアリーグに書簡を宛て、その中でタクシン氏の首相在任中のタイで裁判を通さない死刑や拉致、行方不明などの事件が多発していた事実を訴えたという。

 タクシン氏は7月にマンCの株式の75パーセントを取得し、買収に成功したばかり。プレミアリーグは8月11日に今シーズンが開幕。昨季は20位中14位と低迷したマンCはストーブリーグにイタリア・セリエAのフィオレンティーナからブルガリア代表FWバレリ・ボジノフを獲得するなど、新シーズンに向けて着々と準備を進めていた。その矢先の出来事だっただけに、リーグやクラブが受けた衝撃は大きい。

 プレミアリーグはヒューマン・ライツ・ウォッチの訴えに真剣に耳を傾ける姿勢を示している。一度は認めたタクシン氏のオーナーの資格を剥奪する可能性もあると見られている。

 そもそも、タクシン氏とはどのような人物なのか。
 タイ北部で生まれた同氏は警察官を経て、携帯電話や衛星通信事業で成功。一挙に巨万の富を築いた。95年に政界に転じると、98年に自らの政党であるタイ愛国党を創設。ビジネスで得た資金力を元手に勢力を広げ、01年の総選挙で圧勝して首相の地位へ。首相となってからは、地方に厚い施策を行い、都市の貧困層や農民から圧倒的な支持を受けた。

 一方で、その強引な手法には批判も多かった。
 03年、麻薬撲滅を掲げて、大規模な密売人の取締りを行い、のべ5万人以上を逮捕したが、身内による口封じなどで容疑者2000人以上の犠牲を出した。軍や警察による人権侵害も問題化して、国家人権委員会に対して「警察が誤って射殺してしまった遺体に覚せい剤をふりまいていた」などの訴えが後をたたなかったという。先のヒューマン・ライツ・ウォッチも、この点を強く指摘している。

 06年1月には巨額の脱税疑惑が浮上し、国民の支持率が急低下。同年9月には、軍部によるクーデターで国外に追放された。今はタイに入国することも許されない状況で、亡命生活を余儀なくされている。

 このような過去を持つ人物がプレミアリーグのクラブ買収を目論んだ理由はどこにあるのか。それは大きく2つ考えられる。
 一つ目はビジネス面だ。プレミアリーグは史上まれにみる商業的な活況を呈している。05-06シーズンに欧州史上最高の約3249億円の収益を記録。08シーズンから3年契約6500億円の莫大なテレビ放映権契約を結んでいる。実業家としての側面を持つタクシン氏にとっては限りなく魅力的な投資先に映ったはずだ。

 そして、2つ目の理由――これは1つ目よりも大きい。それはタイ国内で熱狂的な人気のあるプレミアリーグのクラブを買収することで国民の支持を得て、再び首相の座に返り咲くという狙いだ。

 東南アジアには英国をはじめとする欧州列強の植民地だった国が多く、サッカーは国民に最も愛されているスポーツの一つ。タイも99年からプレミアリーグが週末に生放送されていて、スポーツニュースでは必ずといっていいほど同リーグの結果が紹介される。

 自国リーグにはそれほどの関心は見せないタイの人々もプレミアリーグときけば目を輝かすとか。そのことを熟知しているプレミアリーグの主要クラブは近年、オフシーズンに東南アジアへのツアーを敢行している。中にはタイ語のホームページを開設しているクラブも存在しているほどだ。

 亡命中のタクシン氏にすれば、これを利用しない手はない。今のままではタイ国内での存在感は薄くなる一方だ。麻薬撲滅運動で大きな批判を受けた翌年の04年にもプレミアリーグの名門クラブであるリヴァプール買収を画策した。窮地に追い込まれた場合に限ってサッカークラブ買収に動いている。将来的にはタイ人選手をマンCに連れてくることを検討しているが、これも国民の耳目を集める一つの手段と考えられる。

 タクシン氏をクーデターで排除した国軍の指導部も国民から全面的な支持を受けているわけではない。
 7月末には約5000人のタクシン氏を支持する勢力による激しいデモが起きた。当のタクシン氏は「今は自国のために悩まなくていいので、ホッとしている。(祖国での政治に興味はなく)今は名門マンチェスター・シティそのものにだけ関心がある」と冷静を装っているが「タイ国民は私が示した貧困政策を懐かしく思っていると信じている」というセリフに本音がにじむ。

 ところが、である。野望を実現する前に人権団体から思わぬ足止めをくらってしまったのだ。
 それにしても、と思う。一度タクシン氏を“当選”としてしまったプレミアリーグのオーナー適格審査とは何なのか。
 04年にプレミアリーグが導入したオーナー適性テストでは、横領や脱税などで有罪になった人物がクラブのオーナーに就任することを禁じている。だが、06年に巨額の所得税逃れを犯しているような人物をあっさり通過させているとはいかがなものか。この適性テストは、クラブが不正取引に巻き込まれることを防ぐ効果を挙げているというが、このままでは“第2のタクシン”が現れても不思議ではない。

 プレミアリーグが外国資本の導入によって、資金面で恩恵を受け、大きく成長しているのは事実である。その一方で同リーグの人気や名声を利用しようと企んでいる経営者や政治家も少なくない。良くも悪くもイングランドのフットボールは、それだけ大きな存在になってしまったということだ。

(この原稿は『FUSO』07年10月号に掲載されました)


◎バックナンバーはこちらから