スポーツの語源については諸説ある。最も有力なのはラテン語の「deportare」。「portare」とは運ぶこと。すなわち「仕事」である。その否定形(de)なのだから「仕事をしない」。つまり「遊び」や「解放」という意味。

 産経新聞紙上(4月15日付)で評論家の西部邁氏が<「ラサ」の悲劇と「北京」の笑劇>と題してこんな論評を寄せていた。<しかしスポーツという言葉の語源が「外れた」(ディス)「振る舞い」(ポルト)であることを知っている者はほとんどいない。日常生活から外れた振る舞いは「あそび」である。「あそび」が健全な文化であることをやめてピュエリリズム(文化的小児病)にはまるのは、ホイジンガがいったように、「聖なる感覚」と「厳格な規則」を失うときだ。>

 ホイジンガには異論があるだろうが、スポーツはルール化され、形式化されたことによって、より「高度な遊び」に昇華されたと解釈することもできる。

 Jリーグで審判に関するトラブルが相次いでいる。J1第9節のFC東京対大分トリニータ戦では西村雄一主審が判定に異議を唱えた選手に対して「死ね」と言ったとして物議をかもした。調査の結果、「うるさい。黙ってプレーして」の「して」の部分が「死ね」に聞こえたのだろう、という結論に落ち着いたようだが、事の本質はそこにはない。審判と選手の間に信頼関係がないこと、コミュニケーションスキルが未成熟であることを協会は問題にすべきだろう。

 先のゼロックススーパーカップではレッドカードを3枚、イエローカードを11枚も乱発した審判もいた。ここまでくればジャッジが正しかったか否かではない。ゲーム、そして自らをコントロールする能力に残念ながら欠けていたと言わざるを得ない。

 総じて言えることは日本の場合、スポーツが「教育の一環」と位置づけられてきた期間が長かったため、いまだに“上から目線”の審判が少なくない。一方で「高度な遊び」を成立させるため、あえて黒衣に徹しているストイックな人々に向けられる選手からの視線にリスペクトの精神が欠如している点も、いささか気にはなる。

 当たり前のことだが、「高度な遊び」は他者(相手や審判)の存在なくしては成立しえない。選手も審判も今一度、スポーツの原点に立ち返る必要がある。

<この原稿は08年5月7日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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