一柳はJTを率いて6年目のシーズンを迎えようとしていた。自らもセッター出身ということもあり、早くから竹下の能力に目をつけていた。
 また当時のJTにはセッターが西堀育実だけしかおらず、Vリーグに昇格するためには竹下の能力とキャリアが必要だと考えていた。
 一柳の回想――。
「最初に会った時の竹下は人の前に出るのも嫌がっているような印象でした。『もうバレーボールはやりたくない』とも言っていました。そこで私は『ウチでもう一度やってくれないか?』と頼みました。口説き文句? それは『キミの能力をいかすためのセッター練習をやりたい』というものです」

 そこまで一柳が竹下に入れ込んだ理由は何だったのか。
「彼女は動物的な反応ができる選手なんです。たとえば普通のセッターはトスを上げる時、ヒザを曲げてボールの下に潜り込む。つまりボールの下に腰がある。これが基本なんです。
 ところが彼女はボールに触った瞬間、もう腰が入っている。あるいは床から1mしか上がっていないボールをバックステップを踏みながら入っていくことができる。普通の選手がこんなことをやったら、腰を打ったり頭を打ったりするのがオチです。しかし、彼女に限って、そんなシーンは見たことがない。
 これは当時の私が考えていたことですが、彼女ほどの身体能力があればコートの3分の2近くの面積でトスが上げられる。1日1cmでもトスを上げる範囲が広がれば、10日で10cm広がるわけです。そのことを彼女にはっきりと言いました。
 昔はセッターというと柳のようにヒラヒラと柔軟にプレーするのが理想だと言われていた。でも今、世界と戦うためには攻めるセッターが必要です。そうでなければ、スパイカーの勢いが出てこない。竹下こそはそんな攻めのバレーの適任者だと私は思っています」

 一度は「もういらない」と言われた人間だからこそ、「あなたが必要だ」との言葉には心が動いた。
 自分の存在感。
 自分の存在価値。
 そして自分の居場所。
 竹下は、ずっとそこにこだわり続けてきた。

「高校を卒業する時、私には、『どうしてもトップのチームでやりたい』という思いがあった。でも、いざ入社が決まると、まわりの人から『あなたは身長も低いし、コートに立てるかどうかわからないわよ』と言われた。
『何言ってるの、この人たち。絶対に自分はチャンスを掴んでみせる』。心の中で、こう言い返しました。
 ずっとやってきて、それなりの結果も出せたし、優勝もした。しかし、それでも常にどこかに『ここで自分は必要とされているのだろうか……』という思いがあったんです。
 だから一柳さんに『あなたが必要だ』と誘われた時には、『よし、必要としてくれる人のもとでもう一度頑張ろう』という気持ちになったんです。何度も何度も『あなたが必要だ』と言ってもらったものですから……」

 チームにとって必要な選手――それこそはセッターにとって最高のレゾン・デートル(存在証明)であった。
 実際、JTに入ってから、竹下は午前と午後で2時間はトス練習に費やした。一柳も、1日500球はトス用のボールを上げた。ボール1個分、普段はトスを上げられない位置に投げると、竹下は「ギャーッ!」と悲鳴をあげたという。
「斜め後ろにもボールを投げました。トスを上げるには、まずボールの下に潜り込まなければならない。彼女はネット際から斜め後ろのコートサイドにまで走っていき、そこからトスを上げていました。転びながらでもトスを上げるんです。こうして日一日、彼女はトスを上げられる範囲を増やしていったんです」
 聞いているだけで壮絶な練習風景が浮かんでくる。指導する方も必死なら、指導を受ける方も必死だった。

 竹下は今年1月、リーグ戦でリベロの菅山かおると接触、右手親指を脱臼した。
「親指がありえない方向に反り返っていたので、脱臼しているなとはすぐわかりました」
 ケガの直後、本人はそう語っている。すぐに手術し、ケガは完治したが「まだ感覚は戻っていない」状態だ。

「去年は自分でも本当にいいパフォーマンスができたと思っているんで、余計に『こんなはずじゃない』とイライラしますね」
 負けん気の強さが、ほんの少し顔をのぞかせた。

 バレーボール選手、とりわけセッターは指先の感覚が大切である。大げさではなくミリ単位でボールを操る。
「スパイカーには高いトスを得意とする者、速いトスを得意とする者、ネットに近いトスを得意とする者など、いろいろいるんです。そこは常にこちらで計算しなければいけない。ちょっと指先の感覚が狂うだけでトスが短くなったり、長くなったりしてしまうんです」

 トスを上げる際、竹下が頼みとするのが右手の親指である。そこを脱臼してしまったのだ。今現在、レントゲン写真では「異常なし」でも、狂った指先の感覚は本人にしかわからない。それが彼女を苛立たせる。
「私にとって右手の親指はトスを上げる際の軸なんです。バレーボールの基本は親指、人差し指、中指で(トスを)上げるんですけど、私は親指を重視している。セッターによっては『人差し指の方が大切』という人もいますけどね。
 ケガをしてから余計に右手親指の重要性がわかるようになりました。ケガをしてからというもの親指が反らないんです。だから(トスを上げる際に)間合いをつくることができない。クッションがきかない状態なんです」

 親指へのこだわりはセッターという専門職へのこだわりに通じる。そこから見えてくるのは職人としての彼女の生き様である。
「あとでビデオを観ると、解説者の言っていることと自分が思っていることが違っていることが随分あります。『この選手には近いトスがいい』と判断して自分は上げているのに、まわりは逆のことを考えていたりする。
 柳本監督も同じセッター出身なので、セッターに対するこだわりはすごいものがあります。基本的にセッターはアタッカーをいかしていくら、という仕事。そのためにトス回しや組み立てがある。それに対する考えは基本的に私も同じです。
 しかし、最後は後悔したくないので、自分が思うように上げさせてもらっています。実際にベンチから指示が出ている時は、それに従いますが……。
 いずれにしても、日本は日本らしいバレーをしなければ世界では勝てない。今、世界ではヨーロッパのオーソドックスなバレーが主流になっていますが、その中で中国がトップにいるのは速さや正確性でヨーロッパに勝っているからだと思うんです。
 その中国に先のアジア選手権では3−0のストレートで勝ちました。これは大きな自信になりました。チームとしての組織力があれば、中国を相手にしても十分戦えるということです。緻密で確実に点を取るバレー。結局のところ、これを追求していくしかないんじゃないでしょうか」

 そして、こう続けた。
「ヨーロッパでは190cmの選手なんて今や珍しくない。日本でいくら大きいと言われる選手でも、世界に出ていけば中くらいの大きさです。その意味ではミスが少なく、トータルに動ける選手でなければ、日本らしいかたちをつくることができない。私にとって今度がオリンピックを目指す最後のチャンス。キャプテンとして死に物狂いでやりたいと思っています」

 北九州に住む竹下の父、菊雄さんはいす職人である。
 竹下は小さい頃から、父親が働く姿を見てきた。
「父は仕事人間。工場で指を切っても、病院から帰ると、また仕事をしている。夏場、工場は40度にもなるんです。その中でボンドやシンナーを使うと、気分が悪くなって戻したりしている。それでも仕事をやり続けるんです。何事も、最後までやり切らないと気が済まない性分なんでしょうね」

――あなたの性格は父親譲り?
 そう問うと、彼女はかすかに笑った。
「プライドを持ってやっている、そういう意味では似ているかもしれませんね」
 父親からはしょっちゅう電話がかかってくる。29歳のキャプテンは自慢の娘でもある。
「この前なんて『昼から仕事を2回も失敗した。歯痒い』なんて私に言うんです。『なんで、私に電話するの』って、もうそんな感じ。失敗した自分が許せないんでしょう」
 彼女の職人魂はきっと父親から受け継いだものなのだろう。右手親指へのこだわりこそはその証明である。

(おわり)

<この原稿は2007年12月号『Number PLUS』(文藝春秋)に掲載されたものです>
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