米国においてモータリゼーションが始まったのは20世紀初頭である。これにより市民生活の向上や産業振興がはかられたが、当初から将来の環境汚染や広域犯罪の発生、事故の多発を懸念する声が相次いでいた。実際、そうした懸念のほとんどが現実のものとなった。しかし、だからといって再び馬車の時代には戻れない。歴史上、人類が手に入れた最先端の科学技術を手放したことは一度もない。

 話題の競泳用水着についても同じことが言える。1960年代から70年代にかけてはまだスクール水着を改良した程度のものだった。それが80年代に入ったあたりから超極細繊維の水着にかわり、90年代に入り画期的な低抵抗素材を使った水着が登場する。水との摩擦抵抗を極限にまで減らす研究が進んだことでいよいよ「ハイテク水着」の時代を迎える。その象徴が2000年シドニー五輪を席巻した「サメ肌水着」だ。メダル総数の70%弱をミズノ社とスピード社が共同開発した「ファーストスキン」が占めた。

 この水着は「サメ肌」というネーミングでもわかるように表面にはV字型の溝が刻みこまれていた。整流効果を高めるためだ。流水力学の結晶がこの「ハイテク水着」だったのである。

 国際水連は「推進力や浮力を与える用具」の使用を禁じている。当然だろう。だが基準となるときわめて曖昧で「合法」と「非合法」の境目は常にグレーだ。アバウトなスポーツの代表格であるベースボールですら公式球の反発係数は「0.41〜0.44の範囲内」と定められている。一方で国際水連が定めた「推進力」や「浮力」には肝心の数値が示されていない。人体では測定困難との声もある。

「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進氏は言った。「昔はフンドシをして泳いでいたんだよ。水着のことで騒ぎすぎじゃないか」。誰もがそんな牧歌を口ずさみたい。スポーツの原風景の中でまどろんでいたい。だが悲しいかな我々は2度と「フンドシ」の時代には戻れない。

 とあるシーンを思い出す。東京の世界陸上でカール・ルイスがミズノ社製の「魔法の靴」を履いて優勝した時のことだ。「用具の勝利だ」という声が彼の耳に入った。「誰もがこの素晴らしいシューズを履くことができる。だけどワールドレコードで勝てるのはボクだけだよ」。それがルイスの答えだった。

<この原稿は08年6月11日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

◎バックナンバーはこちらから