今季のJリーグは審判に関するトラブルが続発している。
 J1第9節のFC東京対大分トリニータ戦では西村雄一主審が判定に異議を唱えた選手に対して「死ね」と言ったとして物議を醸した。

 問題のシーンは後半37分。FC東京FW赤嶺真吾と大分DF深谷友基が競り合った場面。大分のDF上本大海は赤嶺のヒジが入っていたとしてカードを主張したが受け入れられず、逆に“暴言”を浴びせられたという。
 調査の結果、「うるさい。黙ってプレーして」の「して」の部分が「死ね」に聞こえたのだろう、という結論に落ち着いたようだが、事の本質はそこにはない。
 審判と選手の間に信頼関係がないこと、コミュニケーションスキルが未熟であることを協会は問題にすべきだろう。

 ちなみに西村主審は日本サッカー協会が認定する「スペシャルレフェリー」のひとり。昨年9月に行なわれたU-17W杯では日本人として初めてFIFA主催の国際大会決勝戦でフエを吹いたエリート中のエリートだ。

 大荒れの試合といえば、この3月、鹿島アントラーズとサンフレッチェ広島の間で行なわれた「ゼロックススーパーカップ」が記憶に新しい。家本政明主審が切ったカードはレッドが3枚、イエローが11枚。「オレに逆らうとどうなるか」という見せしめのようなゲームだった。
 試合後、川淵三郎キャプテンは「あんなに(カードを)出す必要はなかった。大事なのはフエを吹くことではなく、ゲームをコントロールすることだ」と苦渋の表情で語った。

 川淵キャプテンと言えばJリーグチェアマン時代「審判に対する文句だけは許さない」と言って、常に審判の側に立った人物。「日本人の審判はレベルが低い。審判が育たないとリーグのレベルも高くならない」と語るなど、審判批判の急先鋒だったアントラーズの選手時代のジーコとも何度も対立した。
 その川淵氏が「あんなに(カードを)出す必要はなかった」と明言するのだから、家本主審は平常心を失っていたと言わざるをえない。

 実は家本主審には“前科”があった。
 06年8月のアントラーズ対名古屋グランパス戦でもカードを乱発(イエロー11枚、レッド2枚)し、物議を醸しているのだ。
 試合後には名古屋のフェルホーセン監督(当時)と激しい言い争いも演じている。結構、カッとなるタイプのようだ。

 もっとも協会も手をこまねいていたわけではない。同年9月、日本サッカー協会審判委員会は、判定に一貫性がないとして家本主審に1ヶ月の研修期間を命じ、Jリーグの審判から外しているのだ。
 判定が理由で研修を命じられたのは、私が知る限りでは彼ひとりである。レフェリングが安定しない理由について、当時の審判委員長は「メンタルが病んでいる。それが判定に影響し、自信を失っている」と述べている。

 海外でも審判と選手のトラブルは後を絶たないが、そのほとんどは選手から審判への暴言、あるいは侮辱的行為である。
 最近ではローマの司令塔フランチェスコ・トッティの審判への暴言が話題になった。
 4月に行なわれたウディネーゼ戦、トッティはシュートを打とうとした際、主審を務めていたリッツォーリ氏が邪魔になったとして、つい罵ってしまったのだ。
「自分が間違っていた。審判としても人間としてもリッツォーリ主審に対するリスペクトを欠いてしまった」
 トッティはすぐに謝罪したが、規律委員会は1万ユーロ(約160万円)の罰金を命じた。暴言のツケは高くついてしまったというわけだ。
 日本代表FWの大久保嘉人(ヴィッセル神戸)もスペインリーグに所属していた頃、暴言が原因で出場停止処分を受けたことがある。

 3年前の12月のことだ。当時、マジョルカに所属していた大久保はオサスナ戦で審判に向かって「バカヤロウ」と口走ってしまったのだ。
 大久保はこれを否定したが、リーグは彼に1試合の出場停止処分を命じた。どちらの言い分が正しいのか真相はヤブの中だが、決まった以上は従うしかない。見方をかえれば、出場停止が1試合ですんでよかったと言えるかもしれない。

 日本の場合、審判が選手を叱っている場面が目立つ。これは長い間、スポーツが「教育の一環」と位置付けられていたからではないだろうか。
 スポーツの語源はラテン語の「deportare」だと言われている。「portare」とは運ぶこと。すなわち「仕事」である。
 その否定形(de)なのだから「仕事をしない」。つまり「遊び」や「解放」という意味。
 ところがスポーツを欧米から“輸入”した日本は富国強兵の時代だったこともあり、スポーツを「体育」と訳してしまった。「体育」は直訳すれば「Physical Education」であり、スポーツとは似て非なるものである。
 この時のボタンの掛け違いか今もスポーツの現場においては、今も悪影響を及ぼしている。それが証拠に「選手を正しく教育しなければならない」という審判が未だにこの国においては少なくない。

 もちろん、選手の側にも問題はある。審判という、いわば黒衣の存在がなければゲームは成立しないのだが、それに対するリスペクトの精神が欠けているように見受けられる面がある。
 選手も審判も、ともにゲームを成功させるためのステークホルダーであるとの認識を持つことがトラブル減少の第一歩になると考える。

(この原稿は『FUSO』08年7月号に掲載されました)

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