エリート軍団といわれながら、ここぞという局面で勝負弱さがのぞき、神戸製鋼や三洋電機に、ことごとく煮え湯を飲まされてきたサントリーを初の日本一に導いたのが33歳の時。青年指導者としての鮮烈なデビューだった。
 しかし、土田が監督の座を退くと、再びチームは低空飛行を余儀なくされる。平尾ジャパンのコーチを経て、2000年に37歳で再び監督に就任、「打倒神戸」を目標に掲げ、2年目の01シーズン、社会人選手権、日本選手権でともに宿敵・神戸製鋼を撃破し優勝。パス主体の継続ラグビーは、見る者にラグビーの魅力を再認識させた。
 続く02シーズンの社会人選手権も東芝府中を38対25で破って優勝。日本選手権こそNECに逆転負けを喫したものの、優勝請負人・土田雅人の手腕には目を見張る思いがした。
「勝利」という目標と「継続ラグビー」という理想、二兎を追い、二兎をしとめた男の指導哲学に迫る――。
 4年ぶりにチームに戻ってきて、まず最初に気になったのは、選手たちが弱い原因をすべて外部に求めているという責任転嫁体質でした。
 ちょうどその頃は、他の会社がインセンティブ制度を取り入れ、出場したらいくら、あるいは勝ったらいくらとおカネが出るようになっていた。ところがウチは、それがない。あるいは「オレは営業やっているから練習ができない」という者までいた。
 まず、こうした意識から変えなければと思った。弱くなった理由を、自分たちの外から見つけているようでは、いつまでたっても変わらないわけです。
 実はジャパン(ヘッドコーチ)から帰ってきて、もう一回サントリーの監督をやろうという気は全くなかった。ところが00年の1月9日、全国社会人大会の準決勝で神戸製鋼戦が終わった直後、部長から「もう一回、監督をやってくれないか」という話をいただいたんです。
 しかし、僕は仕事に戻る気でいたので、いったん、それを断った。ところが佐治社長が「どうしても、やってくれ」と。「このチームを3年かかって強くしてくれ」と強く言われました。
 こうなれば、もう人事命令みたいなものですよ。「仕事はオレが面倒見てやる。さぁ、ラグビーをとるか、仕事をとるか、はっきりさせてくれ」と。そこまで言われれば「仕事をとります」とは言えませんよ。それで4年ぶりの監督復帰となったわけです。
 手始めに選手ひとりひとりと話し合う場を持ったのですが、先述したようにモチベーションは高くなかった。それじゃいけないということで「ファイティング・スピリット&ゲーム・タフネス」という標語をつくった。まずは精神的にタフになろうということで、春から毎日、試合形式の練習を行った。
 そんなある日、早野貴大というFWの選手が外国人にバーンと殴られ、コンタクトレンズがはずれて、それを拾いにいった。さすがにこの時ばかりは怒りました。
 だって練習とはいえ、グラウンドは戦場ですよ。ひとりがゲームからはずれれば15人対14人になるわけですよ。味方を捨てて、自分の都合を優先するその意識が許せなかった。
 監督に復帰して以降、チームに競争原理を植え付けるためレギュラー組のAチームとバックアップ組のBチームに分けて練習試合を行いました。Bチームの選手はレギュラーを奪い取るためには、それこそ死に物狂いでプレーしなければならない。殴られたら殴り返さなければいけないわけです。

 しかし、その頃のチームに闘争心はなかった。いや、なかったとは言いませんが薄くなっていた。
 それを改善するためにはどうすればいいか。たとえば雨の日には、まるで高校1年生が行うような“根性練習”をやらせたこともありますよ。外国人コーチが驚いて目をパチクリさせていたこともありますけどね(笑)。
 フィットネスも徹底してやりましたね。「ノーキックだ。全部回せ」と。これはきついんです。フィットネスがしっかりしていないと絶対にできない。3000メートル走では12分15秒を切れない選手は試合に出さないとも宣言しました。
 こうしたトレーニングの効果が現れたのか、よく相手チームの選手からは「なんでサントリーの選手は疲れてるのに、皆、頭を上げてるんだ!?」と言われましたよ。普通、疲れたら、誰でも頭を下げて休みたいじゃないですか。これが一番、楽なんですよ。僕も現役時代はそうだった。
 だけど、こういう姿勢をとったら、相手にナメられる。だから僕は「相手に弱みを見せるな!」と言い続けたんです。キーワードは「ヘッドアップ!」ですよ。
 目標は「打倒神戸製鋼!」でした。本音では3年計画で神戸を倒そうと考えていたのですが、その年で辞めていく選手もいるわけですから、そのことは口にしなかった。3年計画のことを口にしたのは、2年目に入ってからですよ。
 正直言って、当時、神戸との差はかなりあった。ひとりひとり能力を比較すると、まず勝てない。ならば組織力で勝負するしかない。
 01年の社会人大会の準決勝、38対41で敗れはしたのですが、後半追い上げて一時は逆転した。ずっと言い続けてきたフィットネスで圧倒したこともあって、実のところ僕は満足していた。1年目で神戸に対し、これだけの戦いができるとは正直思っていなかった。
 1年前には57点差をつけられて負けているんですから……。

<この原稿は2003年9月『失敗を生かす12の物語』(光文社)に掲載されたものです>
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