ゲームの公正さを担保する審判だってそうだ。今回37人の審判がゲームを裁いたが、このうち22人がアメリカ人。これで公正さが保たれるだろうか。
 3月12日の日本対米国戦ではとんでもない“事件”が起きた。3対3と同点の8回、1死満塁で岩村明憲がレフトへ浅いフライを打ち上げた。普通の外野手ならタッチアップを見送るケースだが、レフトのランディ・ウィン(ジャイアンツ)は“弱肩”で知られている。当然、日本ベンチにはその情報が入っていたはずだ。
 ウィンがキャッチしたのを確認してサードランナーの西岡剛がスタートを切った。送球は大きくサードベース方向に逸れ、日本に待望の勝ち越し点が入ったように見えた。
 ところが、だ。あろうことか米国代表のバック・マルティネス監督の「離塁が早い」との抗議を受けたボブ・デービッドソン球審が2塁塁審の下した「セーフ」の判定を覆してしまったのだ。
「球審、塁審に関係なく、審判は同じ権限を持っている。一番近いところで見ている審判のジャッジを球審が変更するのはおかしい。長いこと野球をやっているが、こんなことは初めてだ」
 王監督が声を荒げたのも当然である。タッチアップの際の離塁が早かったか遅かったかを判断する最終的な権限は球審にあるとはいえ、一度、2塁塁審が下したジャッジを変更するには正当な理由が要るはずだ。残念ながらそれは何も示されなかった。

 実は、このデービッドソンという球審、いわく付きの人物だった。過去を暴いたのが千葉ロッテのボビー・バレンタイン監督。件の球審とは因縁浅からぬ関係だった。
「彼は“ボークのボブ”というんだよ。何かにつけて目立とうとするんだ。あんな審判にゲームを任せたことが間違いだよ」
 良心の呵責に耐えかねたのか、勝った米国の選手たちの反応も素直だった。
「日本の監督がルー・ピネラだったら帽子を投げ飛ばして抗議していただろうね」(ヤンキースのデレク・ジーター)
「今日のMVPは監督のバックだよ」(ヤンキースのアレックス・ロドリゲス)
 3月17日付のスポニチ紙で甘利陽一記者がユニークなコラムを書いている。
<思い出すのは、マグワイアとソーサが“世紀の本塁打争い”を演じていた98年。誰もが66号だと思ったマグワイアの打球に対し、デービッドソン2塁塁審は「観客がフェンス手前に乗り出して打球に触れた」として2塁打をコールした。この判定は“世紀の大誤審”として全米中で話題となり、妨害者扱いされた男性は無実を訴え、法廷闘争にまで持ち込んだ。当時の地元紙は「世界の注目を集めている試合で、あの微妙な打球を“本塁打でない”と判定できる審判はそういない」と論じた。
 マルティネス監督はブルージェイズで01年から02年途中まで監督経験があるが、野球解説者としてのキャリアのほうがはるかに長い。当然デービッドソン氏の評判も知っている。それならA・ロドリゲスの「MVPは監督」という言葉もうなずける>
 そんないわく付きの審判をなぜ球審に起用したのか。しかも米国戦で。ここまでくると仕組まれていたのではないかという疑念すら湧いてくる。

 そもそも自国の試合に自国の審判を使うこと自体、たいへんな間違いである。サッカーのW杯にしろ、ボクシングの世界戦にしろ、当該国以外の人間がレフェリーを務めるのは当たり前の話である。米国はフェアネスの国ではなかったのか。
 これに対するメジャーリーグ機構関係者のコメントはこうだ。
「この大会はメジャーリーガーが多く、開催地は米国ということで米国の審判を選んだ」
 詭弁もいいところである。今回、報酬の関係でメジャーリーグの審判員はひとりも参加していない。デービッドソン球審はメジャーリーグで試合を裁いた経験はあるが、いまはマイナーリーグのフィールドに立っている。
 もっとも4人の審判をすべてメジャーリーグの審判で固めたとしてもフェアとはいえない。参加国から公平に集めるのが筋だろう。
 ちなみにサッカーのW杯でも前回の日韓大会で“誤審”もどきの判定が相次いだ。このため、今回のドイツ大会から各大陸連盟推薦のレフェリーが何度も合宿を重ね、1年をかけた慎重な適正テストを経て選抜される仕組みに改められた。
 さらにはレフェリーとアシスタント・レフェリーからなる3人のチームは同じ国か大陸で構成される。コミュニケーションを円滑にするためだ。当該国はもちろん、同じ大陸連盟の国の試合を裁くこともない。これほどまでに公平性を保つことに力を入れているのだ。
 自分たちが正義だ、ルールだといわんばかりのメジャーリーグ側の態度は傲慢を通り越して醜悪ですらあった。本気でそう思い込んでいるのだから、なおさらタチが悪い。

 醜悪といえば判定が覆った直後のマルティネス監督の振る舞いには思わず目を背けてしまった。あろうことかガッツポーズをしてみせたのだ。あの瞬間、私は米国がひとつの勝利を得た代わりに大切なものを失ったと思った。それはベースボールの品格であり、スキッパー(監督)の権威であり、はたまた他者への慈愛である。
 Unwritten Rule(書かれざるルール)――。メジャーリーグでは明文化されたルールよりも“戦いの掟”のほうが優先される。たとえばホームランを打った打者が、次の瞬間、走るのをやめて打球の行方を目で追ったり、バットを高々と放り捨てたりすれば、次の打席では間違いなく報復の対象になる。ガッツポーズにいたっては、もう何をか言わんやだ。
 余談だがベースボールは西部劇に似ている。それは良くも悪くももっともアメリカ的なものといっていい。
 西部劇ではガンマン同士が決闘を行うとき、5歩なら5歩、10歩なら10歩と必ずカウントしながら互いに背を向けて歩く。そして振り向きざまに銃の引き金を引くわけだが、そこで仮に寝転がって引くようなことがあれば、たとえ相手を撃ち殺すことに成功したとしても、その後には私刑が待っている。これも「書かれざるルール」のひとつだ。
 その意味でいえば、日本人は未熟で無能な審判以上に礼を失した敵将に軽蔑のまなざしを向けるべきだった。もし日本代表を率いる王監督が同じ場面で同様な態度をとった場合、米メディアはどんな反応を示していただろう。

 野球超大国・米国の早期敗退はベースボールの将来とWBCの今後にいったいどんな影響を与えるのか。敗軍の将、マルティネスは語った。
「長い間、我々は世界における野球の先生だった。でもいまは韓国や日本から学ばなければいけないこともある」
「かつては我々もそうだったが、ピッチャーを中心とした守りの野球が本来の姿。1960年代はアメリカでもそうだった。いまは球場もストライクゾーンも狭くなり、ホームランも増えた。だが、それは本来のベースボールではない。実際、(スモールベースボールの)ホワイトソックスやエンゼルスがワールドシリーズで勝ったじゃないか」
 当たり前のことだが、スーパースターをいくら集めたところでゲームには勝てない。最強チームとドリームチームは違うのだ。メジャーリーグ史上最高の年俸(約29億円)を誇るA・ロッドことアレックス・ロドリゲスは2次リーグでわずか1割6分7厘の成績しか残すことができなかった。
 代表チームの威厳もいまひとつで、メジャーを代表する多くの選手がチームとの契約を優先し、WBCに背を向けた。バリー・ボンズ(ジャイアンツ)、ジョン・スモルツ、ティム・ハドソン(ともにブレーブス)らは参加に前向きな意向を示したにもかかわらず、故障を理由に最終的には出場を辞退した。
 日本代表においてはヤンキースの松井秀喜が熟考の末に出場を辞退した。昨年オフにヤンキースとの間で4年総額5200万ドル(約60億円)という契約をかわした。同球団のブライアン・キャッシュマンGMからは「出場してほしくない」旨の手紙が届いた。王監督とオーナーのジョージ・スタインブレナーとの板挟みにあったあげく、最後はヤンキースを取った。ワールドチャンピオンへの誓いを新たにした瞬間でもあった。
 WBC直前のインタビューで王監督はこう語った。
「サッカーのW杯同様、2回、3回と回数を重ねるごとに権威も高くなり“よし、オレも出るぞ”という空気になっていくんじゃないでしょうか。また自然とそうなっていかなければならない」

 2回目の大会は3年後。はたして予定通りに実施されるのか。というのもメジャーリーグの国際戦略の一環として、あるいは開幕前のエキシビションとして位置付けていたWBCが、少なくとも米国にとっては最悪の形で終わってしまったからだ。総入場者数は目標の80万人に届かず(約74万人)、ニューヨークの地元紙が取ったアンケートでは82%の人々が、「(WBCに)興味はない」と答えた。
 WBC開催の推進役となったバド・セリグコミッショナーは「WBCは世界の野球に「いい影響を与えた。きっと私が死んだ後はもっといい大会ができるようになるだろう」と胸を張った。しかし、開催に反対だったオーナーの間からは「いったい何のための大会だったのか?」との不満の声も上がっているという。このようにWBCをめぐってはMLB内に深刻な利害対立がある。
 野球超大国抜きの大会――。次回はそんな事態も予想される。だが、それは案外、悲観すべきことではないのかもしれない。

(おわり)

<この原稿は『月刊現代』(講談社)2006年5月号に掲載されたものです>
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