100年以上の伝統を持つ乙亥相撲が開催されている野村町だけに、全国大会で活躍した松本良二少年は中学生ながら一目置かれる存在だった。
 だからこそ「相撲をやめたい」という寝耳に水の言葉は周囲を驚かせた。だが、それは突然の心変わりではなかった。
 玉春日は今時では珍しく兄2人、姉3人の6人兄弟。だが、もっぱらの遊び相手といえば同じ町内に住む2歳年上のいとこだった。
 幼いころから一緒に野山を駆けずり回り、いろいろなことを教えてもらった。年が近いこともあって、本当の兄弟以上に親しい存在だった。そのいとこが地元の野村高校に進学するとラグビーを始めた。1対1の相撲とは違い、30人もの男が一つの楕円球を追う姿は新鮮に映った。当時のラグビー界といえば新日鉄釜石の黄金時代が終わり、同志社大を卒業した平尾、大八木といった若い力が台頭し、新時代へと移行していたころ。
 そんな選手の活躍にも影響されて「自分もラグビーで脚光を浴びたい」と思うようになっていた。

 相撲へのコンプレックスもあった。まわしひとつで体をぶつけあう姿は、見る者にはたくましさを感じさせるが、当事者の松本少年にとっては、それが嫌でたまらなかった。「相撲を始めたころから、みんなの前に裸をさらすのが恥ずかしくてたまらなかった」という。
 さらには、相撲が強くなればなるほど稽古も一層に厳しくなる。友達と遊ぶ時間も欲しいし、恋もしてみたかったが、ハードな稽古の後はそんな時間を取れる訳もなし。1日でも早く相撲と決別したくてたまらなかった。

 一度決めたことは最後までやり通さなければ気が済まない性格だが、そんな松本少年を相撲にとどまらせたのは、野村町で春日館という道場で相撲を指導していた兵頭洋和さんだった。
 それまで多くの子供を指導してきた兵頭さんだが、松本少年の抜群の素質に惚れ込んだ。そして、執拗なまでに説得を行った。最初は聞く耳すら持たなかった松本少年だが、その熱意に心は揺らいでいった。

 結局、「高校に行ったら髪を伸ばさせてほしい。相撲もやる代わりにラグビーもやらせてほしい」と条件付きながら、相撲を続けることを認めていた。そして、地元の相撲の強豪校である野村高校へと進学することになった。
「相撲の稽古が厳しすぎて結局、ラグビーどころじゃなかった。髪も伸ばせなかった」

 だが、今では「あのまま相撲を続けてよかった。現在の自分があるのも兵頭さんのお陰」と感じている。
 その兵頭さんは3年前に他界したが、玉春日の心の中には今でも生き続けている。もちろん、しこ名の玉春日は春日館から命名したものだ。

 抜群の素質は高校時代の切磋琢磨でさらに輝きを増した。当時から押し相撲一筋だったが、インターハイでは1年のころからベスト16に食い込み、2年の東西対抗では軽量級で全国2位になった。
 高校卒業後は警察官になるはずだったが、活躍が認められて中央大へ進学。そして、嫌で嫌でたまらなかった相撲はかけがえのないものへと変わっていった。

(第3回へつづく)
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<この記事は1999年7月「FORZA EHIME」で掲載されたものです>
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