デュエットの立花・武田組の銀メダルで、日本はシンクロナイズドスイミングでロサンゼルスからアテネまで、6大会連続のメダルを奪取した。チームでも指揮を執る井村雅代ヘッドコーチ(54)は、ほとばしる情熱と果てることのないアイデアを駆使。あっと驚く「人間風車」「武士道」で究極の戦いを挑んだ。鬼ともいわれる井村コーチの求めるものは“凄(せい)絶の美”しかない。
 採点競技ゆえの苦悩

「踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」。軽快な「阿波踊り」の祭りばやしに乗って、選手ばかりかスタンドまでが踊り出す。踊らなかったのはジャッジだけだった。
 8人で演技するテクニカル・ルーティン。クライマックスの人間風車には度肝を抜かれた。8人のラインに乱れはあったが、それを補って余りある迫力があった。と、こちらの目には映った。しかし、それが点数に反映されない。技術点で9.7が二人もいたのはどうしたものか。

 一方のロシアは派手さこそないが堅実で、フォーメーションからフォーメーションへの移動が素早い。全体のコーディネーションが行き届いていてスキがない。いわゆる洗練された王者の演技だ。
 ボクシングでもそうだがチャレンジャーがチャンピオンに勝つには、何を措いても「倒す」という強い意志が必要だ。判定では勝てない、と覚悟を決めた方がいい。ハイリスク、ハイリターン。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の心意気だ。その意味で井村ジャパンのチャレンジング・スピリットを私は全面的に支持する。

 ジャブやワンツー、教科書通りのコンビネーションではタイトルは奪えない。倒すか倒されるか――。「人間風車」がまき上げる水しぶきが、私の目には血しぶきに映った。この“凄絶の美”がわからないというのであれば、もう放っておけばいい。カルチャー・ギャップの一言で片付けたくはないが、シシュフォスの営みにも似てあまりにも悲しい。

 凄絶な血祭り

「日本調というのは、世界が憧れる日本のイメージがあるから保険にはなる。しかし、それだけではいつまでたっても二番手のままなんです」。アテネに行く前、ヘッドコーチの井村雅代は私にこう語り、続けた。「欧米では“わび・さび”よりも、終わった瞬間に“ブラボー!”と叫ばれる演技でなければ点数にならない。特にオリンピックは“スポーツの祭典”だから興奮させた方が勝ち。心に染みる感動も涙も芸術点では無視される。ガンと殴るような過激さの方がもてはやされるんです」

 おそらく井村には口に出せない積年の葛藤があったはずだ。本当ならもっと芸術性にこだわりたい。観客に席を立てないほどの感動を与えたい。しかし、そこにこだわる限り、五輪では勝てない。「だから五輪では日本が点を取れる方法を考えざるを得ない」。日本が勝てばシンクロが変わる。いや変えてみせる――。井村はそう誓っていた。

 タイムに100分の1秒でも差があれば、負けても納得がいく。相手が1グラムでも重い物を持ち上げれば、素直に引き下がることができる。しかし採点競技はどこまでいっても結局は目分量の世界である。シドニーでも宿敵・ロシアに惜敗した。4年前、結果を受けて井村は言下に言い切った。「わからん」。それが精一杯のジャッジへのレジスタンスだった。
 最終日のフリールーティン。井村ジャパンは「武士道」で勝負に出た。再び水しぶきを血しぶきにかえた。それは夏の終わりを告げる美しくも凄絶な「血祭り」だった。

 北京の鳥人へ 〜今、助走が始まった〜

 ポールボルターに課せられた使命は2つある。「鳥人」になること。「超人」であること――。
 陸上のあらゆる競技種目の中で人力以外のものを動力に使用できるのはポールボルト(棒高跳び)だけである。器具を使用できるということは、逆に言えばそこに高度な技術が介在するということでもある。

 選手は風を読み、空と対話しながら、助走のタイミングを計る。交渉の相手が機嫌を損ねると何を仕出かすかわからない自然とあっては、こちらはひたすら丁重にもてなすしかない。間違っても腹を立てたり、我が身の不調を嘆いたりしてはならない。何しろ自然は誰に対しても公平に無慈悲なのだから……。

 ポールボルターは自然と交渉するタフ・ネゴシエーターであると同時に武芸百般のアスリートでもある。助走距離は約40メートル。徐々に速度を上げ、踏み切りの数歩手前でギアをトップに入れる。すなわち助走路においてポールボルターはスプリンターと化す。しかし、ただ速ければいいというものではない。軽くはない“物干し竿”を両手でグリップしたまま走るのだ。筋力が安定していなければたちどころにバランスを崩してしまう。おそらくポール持たせて100メートルを走らせたら、生粋のスプリンターよりポールボルターの方が速いのではないか。
 
 「蝶人」羽化の時

 踏み切ってからが、また一仕事だ。空中での動作は多分に器械体操の要素が詰まっている。いかにしてバーをかわすか。助走路ではスプリンターだった者が踏み切る際にはハイジャンパーとなり、踏み切ってからは体操選手となる。その完成型が6メートル14の世界記録を持つセルゲイ・ブブカだった。彼は「鳥人」への夢を実現するため「超人」であり続けようとしたのである。
 
 沢野大地はどこまでブブカに近づけるのか。予選では手や太腿がバーに触れたにもかかわらず、幸運にも3回目で5メートル65をクリアした。アテネの女神(守護神アテーナは知恵と戦術の女神)は極東の島国からやってきた痩身(そうしん)のポールボルターに熱いウィンクを送った。「奇跡です。ラッキーです」。こうして沢野大地は九死に一生を得た。
 
 しかし、女神は2度ほほ笑まなかった。決勝では5メートル65をクリアできなかった。惜しかったのは2度目の試技。かすかに体の一部がバーに触れただけだったが、無情にもバーはマットの上ではねた。前日、愛情たっぷりのウィンクをくれた女神がこの日はプイと横を向いたまま、足早に通り過ぎた。次のアバンチュールに忙しかったのかもしれない。

 かくして沢野大地のアテネでの夏は終わった。日本人として20年ぶりの決勝進出を果たしたものの、悲願のメダルには届かなかった。日本の「鳥人」も世界では「蝶(ちょう)人」レベルに過ぎなかった。
 
 しかし、23歳の彼には余りある未来がある。昨年の世界選手権は決勝進出を決めながら左太腿の肉離れで棄権。パリでは人目もはばからず号泣した男が、アテネでは「戦い切れた。決勝で跳べたことはプラスになる」と言って笑みを浮かべた。アテネは北京への滑走路だと言わんばかりに。そして「大地」から羽ばたく風の感触を知ったと言わんばかりに――。

 康生と桂治のライバル物語

 アテネの人々はひどく呑気(のんき)だ。レストランで食事を注文して、もう1時間近くたつというのにメーンディッシュはおろかパンさえも出てこない。「まだか?」と問うと、彫りの深い顔の男は「そんなに腹が減っているのか?」とこちらの顔をのぞき込んだ。それならと腕時計の針を指さすと、今度はこうだ。「こっちはオリンピックが戻ってくるのに108年も待ったんだぞ」。呆(あき)れるやら力が抜けるやら……。時間の単位に対する概念が東洋の“働きバチ”とは決定的に違っているらしい。次はまた108年後か。

 聖火が消える前に、4人のアスリートについて書き残しておきたい。まずは柔道100キロ級の井上康生。あろうことか、同じ日に2度の一本負け。いまだに10日も前の出来事が信じられない。「美学に生き、美学に殉じた」とこの欄で私は書いた。どこまでも一本勝ちにこだわろうとする姿は刹那(せつな)的ではあったが、柔道家としての矜持(きょうじ)を最後まで貫くものだった。
 4年前、康生はオール一本勝ちで頂点を極めた。アテネを迎えるまで五輪、世界選手権合わせて24戦全勝(うち21勝が一本勝ち)。強さばかりでなく、存在そのものに“華”があり、まさしく彼こそは“ミスター柔道”だった。

 シドニーの会場の隅で2つ年長のライバルの雄姿を身じろぎもせずに見つめていた男がいた。今回、100キロ超級で金メダルを獲った鈴木桂治だ。実はスパーリング・パートナーとして代表選手団との同行を許されていた。柔道家の正装ともいえる柔道着に袖が通せるのは練習の時だけ。試合になれば自らは地味なトレーニングウェア姿。これほどの屈辱はない。「康生さんが勝っても素直には喜べない自分がいた」。いがぐり頭の20歳は目をギラギラさせながら言った。

 4年後、両雄のシルエットは畳の上で残酷なまでのコントラストを描いた。失意のふちに沈んだ康生。歓喜の頂きに上りつめた桂治。しかし、桂治の笑顔がはじけたのは一瞬だけだった。「僕は本来の階級(100キロ級)では勝っていない」。井上康生への事実上の宣戦布告だ。手負いの狼と化した康生にも意地がある。誇りがある。北京への死闘は凄絶を極めるに違いない。

 レースを“破壊”した女王

 私が路上で見た野口みずきは女神どころか鬼神のごとき顔をしていた。彼女の勝因はレースを「破壊」したことに尽きる。
 長い坂に差しかかる前に勝負をかけようと、上り坂の25キロでスパートをかけた。「不安はあったが行くしかなかった」。退路の橋を自らの手で断ち切った。27キロすぎでの2度目の仕掛けは、ダイナマイトをさく裂させるような迫力にみちていた。世界最高記録を持つポーラ・ラドクリフは路上で“戦死”した。走行不能に追い込んだのは“肉を切らせて骨を断つ”とでも言わんばかりの小柄な日本人女性の壮絶な決意だった。

 4年前にもレースを「破壊」したランナーがいた。高橋尚子だ。18キロ付近でいきなりペースを上げて後続をつぶし、35キロ地点ではマッチアップの相手リディア・シモンをばっさり切り捨てた。震えのくるような怖いレースだった。
「強い人と走りたい。高橋さんとは1回も走っていない」。アテネのチャンピオンは言った。2人の女王、もし戦わば……。舞台は巡り、そして北京へ――。

(おわり)
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<このコラムは2004年8月に『スポーツニッポン』で掲載後、当サイトでも紹介したものです>
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