スワローズの東北地区担当スカウト八重樫幸雄といえば、現役時代は極端なオープンスタンスが代名詞だった。晩年は代打の切り札として活躍した。
 八重樫のことを初めて知ったのは、彼が高校(仙台商)3年生の夏だった。「東北ナンバーワン捕手」という触れ込みで甲子園にやってきた。なぜ高校時代の八重樫をよく覚えているかといえば、私の故郷の愛媛・松山商が優勝を狙うにあたり、難敵はどこかと考えたからである。

 東北には2つ難敵がいた。ひとつは八重樫の仙台商であり、もうひとつが松山商と決勝で延長18回を戦うことになる太田幸司擁する青森の三沢だった。結局、仙台商はベスト8で姿を消したが、彼は大会後、ブラジルに遠征した日本高校選抜で3番を打ったはずだ。力感あふれるバッティングは高校生離れしていた。

 プロでは24年間プレーした。いつだったか本人に訊いたことがある。「これまでで対戦した投手の中でナンバーワンは?」
 八重樫は意外な名前を口にした。元巨人の湯口敏彦――。岐阜短大付(現在の岐阜第一)のエースとして甲子園を沸かせた湯口がドラフト1位で入団したのが1971年。180センチの長身、しかもサウスポー。洋々たる前途が広がっているように思われた。ところが、彼は20歳で他界する。公表されている死因は「心臓麻痺」。死に至る経緯については詳述を避けるが、八重樫は湯口のボールが今も忘れられないという。「(2軍の)イースタンで対戦したんですけど、投げた瞬間にドーンとくるようなボール。高めに伸びる投手はいたが、低めにあれだけ伸びる選手はいなかった」。歴史に“たら”や“れば”は禁句だが、湯口が早世しなければ巨人の歴史は変わっていたかもしれない。

「ボールだけなら湯口のほうが速い。だけど、柔らかさはこちらのほうが上」。携帯電話越しの声が上ずっていた。視線の先には高校生ナンバーワン左腕・菊池雄星(岩手・花巻東)がいた。「20年にひとりの逸材。それは練習中の姿からもうかがえる。彼は投内連携でも一切、ボールから目を離さない。あの集中力は素晴らしい」。現役時代、「職人」と呼ばれた男ならではの視点だ。「明日は青森、それから仙台を回って…」。携帯電話の向こうは蝉時雨。金の卵を追いかける「みちのくひとり旅」である。

<この原稿は09年7月22日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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