1994年のシーズン後、オリックス球団は吹田市にある「田村スポーツビジョン研究所」(田村知則所長)に視覚機能の測定を依頼した。イチローにいくつかの検査を試みたところ、際立って高い数値を示す項目が浮上した。
 テストはコンピューターの画面に、8桁の数字を0.1秒だけ表示する。文字のサイズは縦1.2cm、横1cm。正解数は平均して4桁のところを、イチローは6桁から7桁の数字を言い当てることに成功したのである。
 これを「瞬間視能力」という。「動体視力」の中でも、最も俊敏性と的確性を要求されるもので、ミート・ポイントの精度の高さを裏付けた。三振や当たり損ねのポップフライが少ないのはそのためだと考えられる。
 この「瞬間視能力」の検査で、さらに驚くべき事実が判明した。例えば8桁の数字が左から右へ4、0、7、5、8、0、2、3と表示される場合、まず例外なく我々は左読みで数字の並びを把握しようとする。名刺に刷られている横書きの電話番号を右から読もうとする者は、まずいないに違いない。

 ところが、イチローは右から左へ、つまり右読みで数字を追う。先に紹介した8桁の数字を3、2、0、8、5、7、0、4と視認するのである。
 ここでひとつの推理が可能となる。右読みを左バッターボックスでの習性に置きかえると、インコースからアウトコースに向けてボールを追うということになる。ひらたくいえばホームベースの右角から左隅の方向へボールを投げるピッチャー、すなわち左ピッチャーのボールの軌道こそイチローにとって視認するのに無理がない。クロスのボールを武器にするスリークウォーターなら、なおさら都合がよい。

 そのような推論を立てて昨シーズンのデータを調べると、右ピッチャーに対して3割8分1厘の打率が、何と左ピッチャー相手となると3割9分3厘にまではね上がることが分かった。これが10打席や20打席での数字なら偶然ともとれるが、イチローは150打数も消化している。
 さらに克明にデータを洗うと、園川(千葉ロッテ)から7割2分2厘(18打数13安打)、江坂(近鉄)から6割(10打数6安打)、酒井(日本ハム)から5割7分1厘(7打数4安打)、杉山(西武)から5割(8打数4安打)とスリークォーターを滅多打ちにしていることが判明した。これまた偶然というには、あまりにも推論を裏付ける証拠が整い過ぎている。

 もう断言していいだろう。イチローがサウスポー、とりわけスリークォーターに強いのは、視認の特性から考えて偶然ではなく必然なのだ。フォーム的に見ても、サウスポーに対した時はアゴが下がり、脇がよく締まっている。ボールの軌道が「点」ではなく「線」として把握できているから、自然体で待ち受けることができるのだ。「左対左はピッチャー有利」のセオリーは、ことイチローに対しては全くあてはまらない。

 話は前後するが、イチローがボールを「点」ではなく「線」でとらえるという指摘はパ・リーグのキャッチャーを通してしばしば耳にする。これは「追跡視能力」といって、「動体視力」の中でも持続性に関するパートを受け持っている。ピッチャーの手から放たれたボールをロングレンジで監察することによって、ボールが提供する情報を容易に解読することができる。それを裏づけるように本誌353号のインタビュー(聞き手・永谷脩氏)で、イチローはこう述べている。
「投手っていうのは、腕が上がるときの雰囲気で球種がだいたいわかるんです。クセや何かじゃないんですよ。言葉には表せない雰囲気なんです」

 この何気ないセリフの中に「追跡視能力」に関する大きなヒントが隠されている。「腕が上がるときの雰囲気」――私見だが、これはバッティングセンターでのアーム式のマシンをイメージさせる。そう、イチローのバッティングはマシンのアームがボールを拾い、人工的な投球動作に入るところから始まっているのである。

(後編に続く)

<この原稿は『Number』(文藝春秋)1995年7月20日号に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから