3年連続最下位。昨季、合併問題でミソをつけたオリックスにとって、仰木彬の4年ぶりの監督復帰は、久々に放ったクリーンヒットだった。
 69歳での監督就任は根本陸夫(故人・元福岡ダイエーホークス監督)の65歳を上回る史上最高齢。監督通算成績は926勝745敗49分け。勝率にすると5割5分4厘。ONを中心に圧倒的な戦力を誇る巨人を率いた川上哲治や、投攻守すべてが完成の域にあった西武を率いた森祇晶の勝率には及ばないが、いずれも発展途上の状態にあった近鉄、オリックスを率いてのこの成績は胸を張れる。球界を代表する名将のひとりである。
 仰木彬といえば、メジャーリーグで活躍する野茂英雄(タンパベイ・デビルレイズ)やイチロー(シアトル・マリナーズ)の“育ての親”としても知られる。強いことに加え、魅力的かつ個性的なチームをこれまで作ってきた。加えて、スーパースターの育成も仰木の功績のひとつだろう。
 あれは野茂が近鉄に入団して間もないころの話だ。ルーキーの野茂は相手が清原和博(西武ライオンズ・当時)になると急に目の色を変え、ストレート一本鎗の投球で向かっていった。フォークボールさえ投げておけば9割がた打ち取れるのに、投げない。清原は野茂の性格を知っていて、ストレートしか待っていないのだから、どんなに速くても打たれるに決まっている。しかし仰木は一度として「フォークで勝負しろ」と命じることはなかった。
「ベンチで見ていて、どんなお気持ちですか?」
 ある日、単刀直入に尋ねてみた。
 仰木の答えはこうだった。
「そりゃ“ここでフォークを投げてくれんかな”と思うことはありますよ。清原君は明らかにストレートを狙っているわけやからね。でも、野茂の将来を考えれば、僕は口出ししないほうがいい。将来のプロ野球を背負って立つ二人の若者が意気に感じて切るか切られるかの勝負をしている。それをお客さんも楽しみにしている。確かに、あとで泣きたくなるときもあります。でも、それは僕が我慢すれば済む話ですから……」
 仰木がスーパースターの育成に、ことのほか熱心なのは、パ・リーグ一筋の野球人生であることと無縁ではない。
「セ・リーグ出身の監督は、あまりお客さんの入りを考えたりはしないでしょう。しかし、僕のようなパ・リーグ一筋できた者は、いつかセ・リーグのように球場を満員にしたい。満員の球場の中で選手たちにプレーさせてやりたいという思いがある。そのためには、かつての王、長嶋のようなスーパースターの存在が必要なんです。ただ強いだけではだめ。強くてお客さんに喜んでもらえるようなチームにしなくてはいけない」

 振り返れば仰木野球は、これまでいくつものキャッチフレーズを生んできた。近鉄時代の“いてまえ打線”“仰木マジック”に始まり、オリックスに移ってからは“猫の目打線”“日替わりオーダー”……。名シェフは最高の料理を作るために食材を集めるのではなく、最高の食材をいかしきった料理を探求するという。その伝にしたがえば、名将は理想とするチームを作るためにピースとなる選手を集めたりはしない。集まった選手の顔ぶれを見て、どんなチームを作れば最高の結果が得られるか、そこに心血を注ぐ。先に紹介したキャッチフレーズは、いずれも仰木の固有の表現であり、独自の作品だった。
 ところで、仰木野球のルーツを探ると二人の師にたどりつく。“魔術師”の異名で知られた「知将」三原脩と“鉄拳も辞さず”の「闘将」西本幸雄だ。
 三原が「理」なら、西本は「情」の指揮官でもあった。仰木は選手、コーチ時代、この二人の指揮官に仕えた。
「三原さんは選手を使いながら育てていく。まずは若い選手をゲームに出し、そこでいろんなことを学ばせる。私も(西鉄時代は)そうやって育てられました。一度や二度の失敗で烙印を押していたら、若い選手は育ちません。野茂やイチローを育てるとき、参考にしたのがこの三原さんの指導法です。
 野茂にしてもイチローにしても、仮にこっちが“フォームを変えろ”と言っても変えなかったでしょう。そのくらい手のかかる選手じゃなければ超一流にはなれません。むしろ自信をつけさせてやったほうがいいんです。あとは、こっちがどれだけ我慢できるか。
 一方、西本さんには選手を育てる愛情、情熱について教わりました。若い選手を育てるのは、そりゃ命がけですよ。あれは近鉄時代、高地の宿毛でキャンプを張っていたときのことです。そこは四国とはいえ寒くて雪が降る。しかし、西本さんは一切、練習において手加減をしない。悪い環境だからこそ集中力が大切なんだという教えなんです。
 そのころの西本さんの口癖は“俺の横に来たら火花が散るぞ!”。選手やコーチはもちろん、自分に対しても絶対に妥協しない。あの信念がヤンチャだった選手たちを育て、球団創設初優勝に導いたんです」
 コーチ歴20年。采配の土壌は長い下積み生活によってもたらされたのである。

 忘れられないシーンがある。あれは仰木が近鉄の監督に就任して数年たったころの話だ。チームの状態は一向に上向かない。一計を案じた仰木は北海道遠征の際、全選手を釧路のビール園に招集した。
 開口一番、仰木は言った。
「明日は休みだ。今日は心置きなく飲んでくれ。しかし一つ提案がある。明後日のゲームは大ジョッキの一気飲みで、同じポジションの中から一番先に飲み干した者を使おうと思っている」
 当時の近鉄は一つのポジションに同レベルの選手がひしめいていた。例えばキャッチャーは光山英和と山下和彦、ショートは水口英二と安達俊也。ローテーションの谷間も埋まっていなかった。
 その一気飲み大会に参加した吉井理人はあとで語ったものだ。
「僕はそれほど飲まないほうなんですが、あのときは死ぬ気で飲みました。大げさではなく自分の野球人生をかける気持ちで(笑)」
――なぜ、そんな破天荒なことを?
「監督だって誰を使うか、判断に迷うことがあります。逆に言えば、誰を使っても大差がない。そんなときは“頼むから俺を使ってくれ!”と訴えかけるような選手のほうが働いてくれるんです。これは、長年のカンですが、結構よく当たるんです。アッハッハ」
 この4月29日で古希を迎える。マジックのネタは、まだまだ尽きない。

「僕がまだ評論家だったら、このチームの評価には頭を痛めると思いますよ」
 キャンプで会った際、田尾安志は意味ありげな笑みを浮かべて言った。
 昨年11月、50年ぶりの新規参入を果たした楽天ゴールデンイーグルスの初代監督に就任した。現役時代は好打者としてならした。少年時代のイチローの憧れの的だったというのは、あまりにも有名な話だ。
 91年にユニホームを脱ぎ、評論家生活に入った。その間、数球団から打撃コーチとしての“入閣”を依頼されたが、断り続けた。
 その理由はこうだ。
「監督ならともかく、打撃コーチでは自分の野球をすべて表現することはできない。評論家のほうが、自分の野球観や理想とする野球を全国に伝えることができると思っていました」
 楽天からの監督就任の打診に対しては、二つ返事でOKした。誰にも相談せず、自ら決断した。「人生を賭けるに値する大きな仕事だと思った」。戦力面の不安は気にならなかった。
「三木谷(浩史)オーナーの“地域密着型で選手を育てていく”という方針にも賛同しました。
 確かにおカネを使って能力のある選手をかき集めれば、簡単に強いチームはできるかもしれない。しかし、果たしてそんなチームを長きにわたってファンが応援するだろうか……。
 例えば高校を卒業して、すぐにプロに入ったとします。その選手が38歳までプレーするとしたら、ファンは20年間選手と時間を共有することができるわけです。できあがった選手をかき集めるより、こちらのほうがはるかにファンの愛着も強いはず。僕はこういうチームを作りたいんです。
 だからコーチの人選にしても、1軍と2軍の差をつけないようにとお願いした。若い選手を育成するという点では、2軍コーチはとても重要なんです。僕は3年契約で、もちろん初年度から優勝を目指しますが、それと同時にファンから愛され、他の球団の選手から“楽天に行きたい”と言われるようなチームに育てていきたい」

 田尾といえば、思い出されるのが1982年の首位打者争い。太洋(現横浜)の長崎啓二と激しいデットヒートレースを展開したあげく、わずか1厘差で涙をのんだ。
 今でも語り草となっているのが、勝負を避けつづける大洋の投手にいらだった田尾が、ボール球に飛びつくようにバットを振ったシーン。好青年のイメージが定着していた田尾が露にした初めての激情だった。
「激情? いや、そうじゃないんです」
 トレードマークの爽快な笑みを浮かべて田尾は言った。
「あのときに思ったのは、ファンの人に申し訳ないということ。あのゲーム、すでに大差がついていて、その上、首位打者を争う場面もないとなったら、ファンの人たちが気の毒ですよ。そこで、せめてなにかを感じて帰ってもらいたいと思った。それが、あの空振りなんです。自分のタイトルのためにバットを振ったわけではないのです」
――ということは、監督として同じ場面に遭遇したとき、自軍のピッチャーにも勝負を命じると?
「当然そうします。僕の物差しの基準はファンの人たちが何を期待しているか、というところにある。また、その期待に応えてみせるのがプロというものでしょう。無様な真似はさせませんよ」
 人柄は温厚だが、根は硬骨漢。寄せ集めのチームに心棒を通すには打ってつけの人物といえるだろう。
 口さがない者は「100敗するのではないか」と声をひそめて言う。オープン戦を見る限り仕上がりは悪くない。すべて事が上手く運べば、Aクラス争いまではあるだろう。すなわちプレーオフ進出争いの“台風の目”になる可能性は充分にあるということだ。
 楽天にとってアドバンテージは本拠地「フルキャストスタジアム宮城」の風とサイズにある。4月はライト方向から、5月以降はレフト方向から強風が吹き、打者を悩ませる。加えて同球場は改修工事により両翼91.44mから101.5mに拡張される。中堅は122m。間違いなく日本で最もホームランの出にくい球場となる。
 この特性を利用しない手はない。簡単にホームランは打たれないとなれば、ピッチャーは大胆に内角をつくことができる。球威の衰えたベテランピッチャーも蘇る。
 攻めてはホームランを捨て、機動力を重視する。守備面では外野手の足と肩、守備範囲の占めるウェイトが重くなる。目指すべきチームの姿が見えてきたではないか。
 冒頭の田尾のセリフはひそかに芽生えてきた自信の裏づけと受け止めたい。田尾・楽天を甘く見ていたら、痛い目に遭いそうだ。

<この原稿は2005年5月号『月刊現代』に掲載されたものです>
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