メディアの視線は松井にばかり集まっているが、どちらが全米を席巻するような活躍をするかとなれば、それは3年目を迎えるイチローだろう。ルーキーの年、イチローは打率3割5分、56盗塁、127得点で二冠に輝き、116勝というメジャーリーグ最多タイ記録に貢献してMVPまで獲得した。今季はそれを上回るパフォーマンスを披露しそうな予感が漂っている。
「例年より肩の出来が早いんです」
 珍しく笑みを浮かべてイチローは語った。30歳という年齢、メジャーリーグ3年目というキャリア。そして最高のコンディション。キャリアハイの成績を残すとしたら、今年ではないか。そう思わせる空気がイチローの周囲から立ち込めている。
 ルーキーイヤーの01年、イチローは大げさでなくメジャーリーグに革命を起こした。とうのも98年に繰り広げられたマーク・マグワイアとサミー・ソーサの年間最多本塁打記録更新を巡る“世紀のマッチアップ”以降、ともするとメジャーリーグの魅力はパワー一辺倒で語られがちだった。
 排気量の大きな大型車に非ざるものは車に非ず――そんな雰囲気さえ漂っていた。
 そこに現れたのがイチローだ。彼はベースボールの祖国にスピードとプレーの精度、すなわち高性能のリッターカーの魅力をプレゼンスした。バットばかりではない。守ってはレーザービームと形容された光のような送球でピンチを未然に防ぎ、出塁しては疾風のごときスピードで相手をカタストロフに陥れた。
 余談だが、塁間の長さは90フィート(27.432m)。これは“野球の父”アレキサンダー・カートライトが1845年に定めたものだ。このルールはイチローの出現により意味をなさなくなった。
 猛烈な打球が内野手の間を襲う。あるいはボテボテのゴロになる。打者走者は全力で一塁に駆け込み、内野手は猛ダッシュを試み、矢のような送球を一塁に送る。アウトかセーフか。固唾をのむスリルは、この絶妙な距離によって演出されているのだが、イチローはこの“神の決め事”をも破壊してしまった。
 まさしく神か悪魔か――。彼こそは「創造的破壊者」だったのである。
 昨シーズンもイチローのパフォーマンスは突出していた。打率3割2分1厘、31盗塁、111得点。非の打ちどころのない数字だ。それでも、「1年目よりは落ちた」と見なされるのは、逆説的にいえば、誰もがイチローを特別扱いしているからだ。要求水準が他の選手とはハナッから違うのだ。
「リードオフマンもこれから3番、4番と同じようにチームの顔にならなければならない」
 いつだったか、彼はこう語った。
 この言葉ほどイチローの内面をかきむしっていたジレンマを言い表したものはない。3番、4番を打つパワーヒッターが、走攻守すべてに秀でたリードオフマンを技術の面でも、人気の面でも上回るのは日本に限った話しではない。メジャーリーグだってそうだ。
 メジャーリーグ最強のクリーンアップヒッター(主に3番か4番)は、そのままメジャーリーグ最強のフィールド・プレーヤーと見なされる。メジャーリーグ最強のリードオフマンがメジャーリーグ最強のフィールド・プレーヤーと見なされることは、まずない。
 これはベースボールの将来を占う上で健全なことではないとイチローは考えているのではないか。誰がチームの勝利に一番、貢献できたか。それを判断基準にして最強のプレーヤーを選出すべきだ。イチローのコメントを読めば、言外にそうしたニュアンスがにじんでいる。先のコメントは単に彼の自己主張からくるものではない。それがベースボールの、本来あるべき理想の姿だと訴えたいのだろう。

 3月18日、松井が始めて放物線状のアーチを架けた日、イチローはピオリアでカブスのサウスポー、ジム・スモールからライトスタンドに満塁ホームランを叩き込んだ。
 7対1と6点ビハインドの5回。カウント、1−2からの4球目だった。
「珍しいことですね」とイチローは笑っていたが、状況をよく考えればホームランを狙っていたのは誰の目にも明らかだった。
 出塁し、進塁し、一回でも多くホームベースに帰ってくる。それがリードオフマンの本業だが、時には一振りでケリをつけなければならない場合もある。ピストルよりも大砲が求められる場合もある。イチローは何食わぬ顔でそれをテストしてみせたのだ。
「僕は何でもやらなければならない」
 事あるごとにイチローはそう言う。裏返せば、これは「自分は何でもできる」という強烈な自負と使命感の表れである。
 イチローは松井にはなれない。しかし、松井もイチローにはなれない。
 決して交わることのない突出した個性でありながら、しかし、彼らは比較され続ける。同年代に出現した奇跡とも思える規格外の二つの才能の行方を見続けることは、ベースボールというスポーツの魅力の深淵をのぞく行為に他ならない。

<この原稿は2003年5月号『月刊現代』に掲載されたものです>
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